19章 逃げ出すエリヤ
<要約>
おはようございます。令和元年になりましたね。年号は変われども、人間変わらず、というべきでしょうか。人間は実に軟弱、不完全な者です。しかし神は、強い人間に恵みを、弱い人間を退けられるような方ではありません。私たちの強さも弱さも分かった上で私たちを導かれるお方です。大切なのはそのお方にどこまでも食らいついていくことです。しがみついていくこと、寄りすがっていくことです。人生の重大局面では、主の次の指示を仰ぎましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エリヤの弱さ
エリヤは、王妃イゼベルに仕える異教の預言者を捕らえ、キション川に連れ下り、そこで彼らを殺した。ところが、これを知ったアハブ王の妻イゼベルは、悔い改めるどころか、激しく怒り、エリヤへの殺意を燃やし、エリヤを殺そうとする。イゼベルは神の絶対的な力を見せつけられても、全く神を恐れることはなかった。エリヤはイゼベルに差し向けられた使者のことばにすっかり怯えてしまう。どういうわけだろう、それまでは、ただ一人、神以外の何物をも恐れず、力強く神の裁き司として立っていたエリヤが、すたこら逃げ出してしまうのである。それはイゼベルの強さに、地上の現実、つまり、神の御名を振りかざす以外、実際は何も持ちえない、丸裸の自分を思い知らされたのではあるまいか。
ただ、3節「彼は恐れて立ち(新改訳第三版)」は、「彼はそれを知って立ち」(新改訳2017)と訳が変更されている。第三版は、口語訳を踏襲しているが、それは、ギリシャ語の七十人訳、シリヤ語訳に沿ったものであり、今回は、ヘブル語のマソラ本文に沿った訳になっている。ヘブル語は、同じ子音でも、母音の付け方では、読みが異なってくる。そしてヘブル語聖書本文は子音のみで書かれていたから、いずれの読み方でも可能なわけだ。しかし、文脈の流れからすれば、エリヤが恐怖心を抱かなかったかのような意味をくみ取る必要はない。彼は、現実の空気を読み、自分の命を救うために立ち去ったことは明らかであるからだ。情けない、金もなければ力もない、自分をかばう友もない、たった一人きりで、ただ威勢よく神の裁きを語っている現実。エリヤは自分の死を願った。そして、こんな脅威にさらされ続ける人生はまっぴらごめんだ、早く死んでしまいたい、とすら思ったのだろう。エリヤは風を見たペテロのように、沈みかける自分を感じた。エリヤもまた「私たちと同じような人」(ヤコブ5:21)と呼ばれるゆえんである。
ただ、エリヤは、やはり神の人である。彼は、神を見失っているわけではない。「主よ助けてください」と声を上げたペテロと同じである。彼は現実の空気を読みつつも、目に見えない神を確かに感じていた。そして、弱腰になっている自分、何も持ちえない自分が、この現実の中で、さらにどうすべきかを、ただ神と二人きりで語られる必要を感じていたのだろう。彼は、荒野に一日の道のりを入って行った。そしてエニシダの木の陰に座り、神と語り合った。
2.死を願うエリヤ
彼は、神に向かってつぶやいた。しかし、神は直ぐには答えられなかった。彼は、眠った。そして、み使いが彼に触れ、彼に食料を与えている。そしてまた彼は再び眠った。そこにもう一度主の御使いが彼に触れて、指示を与えている。彼はその指示に従い、モーセと同じように、神を目の当たりにし、神と語り合う恵みに与っている。
この一連の出来事は、実に、私たちの神との語り合いの時を象徴する。私たちは、問題を抱えながら、この現実社会の中で生きていかなくてはならない。ノンストップのストレス下で、心は泣きながらも神の御心を求めて、それが分からぬ思いで、歩み続けなければならないことがある。神の答えはそんなに簡単には見つからない。その日一日を生き延びることが精一杯で、家に帰れば布団に倒れ伏して寝るだけの生活、幾日も無為に時が過ぎていくだけの人生を余儀なくされる。だが、不思議にも、そのような危機的な状況でパンは与えられ続け、生き延びている現実がある。つまり、神は、全く何もしてくださっていないわけではない。
かつて神は、アハブを恐れなかったエリヤに、ケリテ川でパンと水を与えて養われたが、イゼベルを恐れ逃げ出し落ち込んでいるエリヤにも、同じようにパンと水を用意された。神は、エリヤが大胆で勇敢で従順な勝利者であった時と変わらぬ心遣いを示されている。この世の社会では、うまく仕事をすれば評価されるが、失敗すれば仕事を取り上げられ、外されることもある。だから人は、始終上司の顔色を伺う緊張関係の中で、仕事をしている。しかし、神はそのようなことはなさらない。たとえ、部下が弱さや失態を見せることがあっても、変わらない配慮を示し続けられるお方である。ただそれが表面的には浮かばれないような人生を強いられているように思われることもあるかもしれないし、この程度のことなら、神は何もしてくださらないと同じだ、と思われるような日々であるかもしれない。しかし、命ある限り可能性はあるものだ。神の愛と真実さはとこしえに変わることがないし、神は私たちを捨て置かれることはない。
大切なのは神の次の指示を掴み取ることなのだ。神に次のステップについて何をすべきか、ヤコブのペヌエルの経験のように、神にしがみついて教えていただくことである。エリヤは天来のパンで力づけられ、次の導きを求めて出て行った。
エリヤは神の山ホレブへと着いた。ホレブは、イスラエル人には霊感を得る場所として知られていた。風、地震、火これは、いずれも神の顕現の象徴的現象である。しかし、そのたびに記者は「その中に主はおられなかった」と言う。主がおられたのは声としてである。神は、私たちに態度を変えられないばかりか、声を聞かせてくださるお方である。つまり、神が私たちに必要な助言を与え、導かれることは確かである。そして一人では立てないと語るエリヤに強力な助け手エリシャを起こされた。神は、私たちに無理強いはされない。必ず、神の知恵があると思うべきところである。まことに生きておられる神に信頼して、次の指示を仰がせていただこう。