21章 取り上げられた畑(ナボテ)
<要約>
おはようございます。世の中には、人間の力では止めることができないと思われるような不正と悪事があるものです。力にねじ伏せられて、泣き寝入りしてしまうような出来事が。しかし、神は、それらどのような小さな事柄も決して見過ごされることはありません。神は盲目でもないし、不誠実でもない。神は正義を持って、全てを正しく裁かれるお方です。そのようなお方がいるからこそ、私たちはこの神を恐れ、人生を正しく歩べきことをよしとするのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アハブとイゼベルの罪
力が正義となり、弱い者の権利が踏みにじられることがある。そしてすべてが闇に葬られることがある。ナボデの事件もその一例であろう。しかし、目に見えぬ神は生きておられる。どんな悪も裁かれずに終わることはない。
アハブは、ナボデというイズレエル人が所有するぶどう畑を気に入り、野菜畑にするため、相当の代価で譲ってくれるように頼んだ。一般に、ぶどう畑は野菜畑には適していないと言われるが、気まぐれなアハブにはかまわぬことであった。ナボデは、王の申し出を断った。ナボデは、その土地は神からいただいたものと考えたのであり、国王といえども譲るものではなかったのである(3節)。
アハブは、寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった、という。まるで子どものような王に、邪悪な妻イゼベルが世話を焼いている。イゼベルは、異邦人である。神を畏れず、イスラエル人とは全く異なる土地観を持っていた。それは王の物であった。イゼベルは、イスラエルの掟を逆手に取って、合法的にナボデの土地を手にした。つまりイスラエルの律法に則って最小限の証人を立て(レビ24:10-16)、ナボデが神と王を冒涜した罪で処刑した。しかも「買い戻しの権利」が適用できないように、ナボデの子らも葬り去ったのである。こうして全く相続者が途絶えた土地は国王のものとなった。
2.神は盲目ではない
表面上は、合法的に見えても、神はこの悪を見過ごされなかった。神はエリヤを遣わされる。かつてイゼベルを恐れ、弱腰になったエリヤが再びサマリヤからイズレエルにある王宮へと下っていた。海抜の高低差を考えると、その様子はよく想像しうる。エリヤは、王宮の門をくぐった。生ける神がともにおられればこそできることであった。悪事の首謀者はイゼベルであったが、神はアハブにその罪を問われた。たとえアハブが殺人を犯してまで土地所有を望まなかったとしても、その土地を自分のものとしたアハブは同罪なのである。神は盲目ではない。誰も阻止し得ない人間の不正と圧政を神は見過ごしになるようなお方ではない。神は正しい裁き人である。ただ神は、冷徹に裁かれる方ではない。罪を指摘されたアハブが後悔しへりくだると、神は災いを思いなおされている。神は、こんな悪人をも見捨てず、悔い改めの機会を提供されることに注意しよう。
もちろん、最終的には、神を認めぬアハブとイゼベルは結果的には滅ぼされてしまうのであるが、神は、幾度も悔い改めるチャンスをお与えになっている。アハブがへりくだるとそれを受け止め、悔い改めへの機会とされた。神は悪いことをすれば裁き、良いことをすれば報われると単純に行動されるお方ではない。一人ひとりをご自身から生み出された子として、養い導こうとされている。悔い改めは、神の子としての成長のために、促されるものである。その神の1人の魂に対する配慮と愛は、ご自身のひとり子イエスをお与えになり、十字架にかけてくださったことに、最もよく表されている。
現在世界の人口は約70億と言われる。私たちには、群なす鳥の一つ一つを見分けるのは難しいことである。しかし神は、無数の人間を、天から十把一絡げに見ているのではない。神の目は無数の一人ひとりの心と行為を識別し、その一人ひとりを、愛情をもって養い導かれようとしている。だから私たちはこの神を畏れ敬わなければならない。