15章 契約の箱の再移送
<要約>
おはようございます。歴代誌の性格が少しずつわかってくる箇所でもあると思います。というのは、歴代誌の著者は、ダビデを指導者としてよりも、神のしもべとして描いているからです。彼は神の民を礼拝の民としていく指導者であり、さしずめ、第二のモーセというべき存在でした。神が建てられた指導者に従い、神の民が整えられていく、それが、捕囚帰還後の民に必要とされたことでした。私たちも同じ必要を持っていることを覚えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.指導者ダビデ
再び神の箱を運び上るエピソードが繰り返される。13章のエピソードとの根本的な違いは、その方法において、牛車ではなく、レビ人が起用された点である(2節、2サムエル6:3,13)。ダビデは、「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、【主】が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」(13節)と考えた。つまりは、二回目の成功で重要なことは、ダビデが、レビ人の存在と奉仕を認め、それを用いようとしたことにある。そういう意味で、この章は、神の箱を運び上るために、レビ人が召集され(4-10節)、礼拝を献げるために、召集されたレビ人に役割が与えられる(16-24節)二つのリストが挿入される構造となっている。これらは、後の時代の単なる挿入ではない。むしろ、歴代誌の著者は、礼拝の民の再興として、ダビデの役割に注目する書き方をしている。
というのは、出エジプトがモーセによって導かれ、モーセによって神の民が教育されたように、王国の建設もダビデによって導かれ、ダビデによって神の民が教育されたのであり、捕囚後に読まれたこの書は、新しい出エジプト、つまりダビデをモーセとみなし、ダビデが礼拝の民を導くと見ているのである。さらに理解すべき霊的教訓は、ダビデは、指導者として、霊的にも人格的にも、知識的にも完全ではなかったが、ありのままに神に整えられながら用いられていった点である。しばしば牧師も完全ではない。しかし、主の恵みによって整えられながら神の器として用いられていくのと同じである。そのように読めば、ダビデを見下すミカルの記述は、単に、ダビデとミカルの夫婦関係を描いているのではなく、霊的な事柄に無関心で軽蔑的な不信仰な者たちを象徴している、とも言えるだろう。
2.神のしもべダビデ
私たちは、ダビデの物語を読み、そこに心理的な慰めや、成功の秘訣を読み取る傾向にあるが、これらを、ダビデを用いられる神の物語と読むなら、ダビデは、神に与えられた礼拝の民を教育指導する役割を忠実に果たしているに過ぎない。となれば、礼拝は、神に求め、神の定めに従う、聖書的な秩序に沿って正しく行われなければならないことを教えているのであり、さらにこの章において彼が指摘するいくつかの重要な原則に、心を留められる。
その第一は、身を聖別し、神の奉仕に当たるべきことだ(12節)。礼拝における個人的な聖別は、あらゆる汚れから離れることであり、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシヤの時代においても、繰り返し確認されている。聖別は、分離、取り分けることであって、まず、礼拝のために自分自身をより分けるのである。普段の生活の流れの中で、礼拝という奉仕に向かって自分自身の時間と気持ちをとりわけていくことである。いつかきちんとしよう、というような気持ちではだめで、自分の時間や日程を礼拝のために先に定めるのである。
第二に、心よりの喜びの声をもって神に仕えることだ(16節)。礼拝は、説教を聞くだけの受け身の行為ではなく、もっと能動的な行為である(詩篇100:1)。そういう意味で、第三に、ダビデは犠牲をもって、神の礼拝に出ている(26節)。献げるものなき礼拝はありえない。サムエル記を読むとその量は半端ではない。ささげ物は、その人自身の神に対する信仰の程度を現すと言ってもよい。そして最後に、主役がダビデから全イスラエルに移動していることに注意しなくてはならない。ダビデの個人的な信仰よりも、全イスラエルの行為に注目されている(28節)。2サムエル6:12-16では、いけにえをささげているのは、ダビデであるが、歴代誌は、民の代表によってささげられたとしている。礼拝にあって栄光を得るのは、ただ神ご自身のみだからである。聖別、喜び、犠牲三拍子そろって、皆で主の栄光を拝する礼拝をささげるべきことを教えられる。