1歴代誌24章

24章 祭司の組み分け、新しい秩序

<要約>

おはようございます。教会がいかに、世の組織と違うべきものであるべきか、今日も、そのポイントを考えさせられるところです。かつて、ダビデの時代に謀反で祭司から罷免されたアヒメレク系の祭司の復活、それは、捕囚期後の新しい秩序の展開を示すものでしょう。守るべき伝統と、新しく神の目線で、考え直すべき歴史的な事柄というものがあるものです。識別力を働かせて、真に、神に喜ばれる教会を建てあげていきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.祭司の組み分け

24章は、祭司の奉仕のための組分けについての記録である。祭司の重要性や資格、機能について説明するものではないが、昨日も見たように、当時ないがしろにされていたレビ人に対する配慮と、礼拝奉仕における公的な承認を与える内容になっていることにまず注意すべきだろう。

さて士師の時代には、中央神殿という考え方はまだなく、聖所は地区別にあったので、アロン系の子孫が行う仕事はたくさんあった。しかし、エルサレムに神殿が建設され、聖所が一カ所に定められる時代になると、祭司の数がだぶつくようになり、仕事を産み出すために24の組みに分けられるようになる。歴史的にこの制度がいつ確立されたのかについては、議論があり、はっきりはしていない。実際にはダビデの時代ではなく、かなり後の時代、つまりこの捕囚帰還時代に展開したもの、と考えられている。大祭司はアロンに始まり、アロンには四人の子どもがいた。しかし、二人の子どもは神の裁きを受けて死に(レビ10:1、2)、大祭司職は、三男のエルアザルと四男のイタマルに継承された。というわけでエルアザル系から16組、イタマル系から8組が分けられて24組、そしてユダヤの暦では、太陰暦の48週に基づいて、各組は順番に一週間ずつ働き、一年に二度ほどの割合で、奉仕が回るという仕組みが整備された。

なお、5節の「聖所の組の長」は誤解を与える訳である。「神聖な組の長」すなわち「神の組の長」とすべきところだろう。祭司の同意的表現とすべきものだ。

2.ツァドク系祭司の復活

ダビデの時代には、エルアザル系の子孫としてツァドク、イタマル系の子孫としてアヒメレクがいた。ツァドクは、若い勇士(12:28)で、ヘブロン時代のダビデに加勢している。神の箱をエルサレムに搬入する際には、兄弟たちとギブオンで祭司を務めている(16:39、40)。アブシャロムの謀反の時には、ダビデから都に留まるように命じられ(2サムエル15:24-29)、その子アヒマアツは、謀反の失敗を王に伝える伝令となった(18:19-30)。そしてダビデ王の復権に協力し(19:11-15)、ダビデ王に最後まで忠誠を尽くした(1列王1:8)。一方アヒメレクも、ツァドクと共にダビデ王に忠実に仕えた祭司であったが、その子エブヤタルの時代、アドニヤの反逆に加担して祭司職から罷免されている(1列王2:26,27)。こうした歴史的な事情で、アロン系の大祭司系列はエルアザルの直系一本に絞られたのである(1歴6:1-15)。

バビロン捕囚後、帰還したイスラエルの宗教的指導者ヨシュア、エズラはエルアザル系ツァドクの子孫である(エズ7:1-5)。しかし、イタマル系の子孫も帰還しているのみならず(エズラ8:2)彼らは、祭司として復活し、その人口比に応じて祭司の組み分けの中に入れられている。となれば、この章のリストでは、イタマル系の祭司が復活したことになる。読者である帰還の民は、神殿再建の奉仕者リストの中に、歴史的な秩序ではない、新しい秩序を考えざるを得なかったことだろう。祭司として選ばれ、なお歴史的には除外された者が復権するのである。

3.くじ引きによる奉仕の意義

今日、私たちは皆、イエスにあって神の子とされ、同時に祭司とされている(1ペテロ2:5、9)。今日全てのキリスト者は大祭司であるイエスとともに、神の前に立つ。となれば、皆が、教会奉仕の組み分けの中に置かれていることを覚えるh0必要があるだろう。

23節以降は、祭司の補佐を行う残りのレビ族についての記述であるが、それは実際には、23:16-23の繰り返しとなっている。問題はゲルション族が省かれていることであるが、その理由はよくわからない。ただここで注目させられるのは、くじによって奉仕を定めている点である。それは、大きなグループや有力な人たちによる人間関係が有利にならない仕組を作り出している。人ではない、組織として機能する在り方が求められているわけだ。

礼拝の再建は、新しい礼拝の在り方を求めるものであれば、そこに人間的な思惑が働かない仕組みも必要だ。教会はしばしば村社会になりやすいものである。一部の仲よしグループや、声の大きい人で物事が動いていくような教会になることがあってはならない。著者は言う。「彼らもまた、彼らの同族であるアロンの子らと全く同じように」(31節)「一族では、かしらもその弟と全く同じであった」(31節)全く同じということばが鍵である。奉仕の機会は平等に与えられている。礼拝の民一人一人の存在と働きが認められる教会となることが重要なのである。

 

 

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