28章 神殿の完成を目指す
<要約>
おはようございます。人にはそれぞれ与えられた使命というものがあるものでしょう。人生は、それを見つけ出す長い道のりです。その間、私たちは自分たちの気持ちの赴くままに、行動することが多いものでしょうが、神の選びと任務に気づくことは重要なことです。主がそこにご自身の栄光をあらわされるからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.つかさたちへの勧め
ダビデは、イスラエルのすべてのつかさを召集し、「私の兄弟たち。私の民よ」(2節)と呼びかけている。それは、あたかも23-27 章において中断された話題に戻っており、22:7-13を改めて繰り返しているようであるが、ソロモンよりもイスラエルの指導者に対する強調があり、神殿建設の工事がソロモンのみならず、国全体の事業として支えられるように勧めているのが特徴である。一般庶民も皆が祭司、レビ人たちのリーダーシップのもとに、一致し協力していくように23-27章の神殿の働き人の説明があったと見るのがよいのだろう。以下要点を整理すると次のようになるだろう。
①神の創造における「安息」の考え方が適用されている(2-3節)。神殿は「神の足台」であり「安息の家」である。それは、創造における神の安息が、神の働きの完成であったように、イスラエルに対する神の働きの完成を意味した。それは捕囚帰還の民にとって、彼らがエルサレムを再建し、安息を得るメッセージとなった。
②神殿を建てるための「選び」が強調され、任務への意識化が促されている(4-10節)。神は、人の内なる能力や功績とは全く無関係に、目的をもって、一人の人を選ばれた。またソロモンのみならずユダ族を選ばれ特別な任務を与えられた。それは、捕囚後のイスラエルにとっても、ダビデの子孫であるゼルバベルとその家族のリーダーシップを認め、与えられた神殿再建の任務を果たすことを促した。
③任務遂行のために、指導者たちとソロモンの神の律法に対する従順が促されている(8節、9-10節)。実際、神の選びは、任務を果たすためであり、そのためには従順な奉仕が期待されたのである。それは具体的に「神を求め」「神を知り」「神に仕える」ことを意味した。律法に対する従順は、イスラエルが約束の地を続けて支配する条件であるのみならず、神に与えられたエルサレム再建の任務を達成し、完成するために、カギとなる要素であった。実際律法を守ることは、エズラ(9:10-15、7:26)とネヘミヤ(1:7-9、9:33-37)の祈りにも強調されている。もちろん、こうした律法への従順は、ダビデ契約(1歴代誌17章)を土台としていることに注意すべきだろう。
④神殿建設は、神のプロジェクトであることが強調される。著者の時代、ダビデとソロモンの王国は、すでに消失してしまっていたが、永遠に生きておられる主の主権が置かれる神殿の再建は、目に見えない主の王国が継続していることを示唆している(17:15)。ソロモンは選ばれて、その神殿を建て上げる任務に導かれ、主の王座に就く恵みに与っただけであり(5節)、それはソロモンの力や建築家の技術によるものではない。これから新しく再建されるエルサレムもまた同じであり、それは教会についても言えることである。
2.ソロモンの勧め
さて、ダビデはソロモンに設計図を広げ、ビジョンを示している。それは、「神の家と神の庭」(6節)「聖所となる宮」(10節)であり、神が臨在される所である。まずそのイメージを明確にすることが、神殿建設の出発点となった。そしてダビデは、具体的に神の宮としての神殿にふさわしい仕様について説明する。
- 神殿の構造(11-12節)
- 神殿の働き人(13節):これは既に23-26章において詳しく述べられた。
- 神殿の備品(14-18節)
であるが、「これらすべては主の手によって書かれたもので、私に、仕事の全貌を理解させてくれる」(19節)というわけだ。それは、ダビデの頭から出てきたものではない。主が啓示してくださったものである。既に述べたように、神殿建設は神のプロジェクトであった。教会も同じである。私たちは、一時代において仕えるに過ぎない。だから教会は神のものとして建て上げられなくてはならない。
3.ソロモンへの激励
著者は、ダビデの言葉を借りながら、神殿建設への取り組みを、繰り返し促している。「勇気を出して実行しなさい」(10節)。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕に関わるすべての仕事を完成させてくださる」(20節)。神が助けてくださって神が完成させてくださる、と。また神の励ましに加えて、人的なサポートがあることに注目を与えている。歴代誌の著者が敢えて、ダビデの時代の出来事を取り上げ、捕囚帰還後の民にこれを語ることの意義がある。それは、互いの協力を呼びかけている。ソロモンには、色々な助け手がいていいなあというのではない。神がともにいる、そして、今ここに皆が一緒にいる、その皆で力を合わせて、建てあげて行こう、ということだ。礼拝の再建の第一歩は、神の恵みにより頼むことであり、また、今いる一人ひとりが、一致協力することだ。何か、物事の底辺に立たせられているように思える時には、ないものねだりをしてしまうものである。しかし、今共にいる一人ひとりを神が用いられるのだし、神が助け、完成させてくださるのだ、という信仰に立つことができれば、道が開けてくるだろう。
後は、勇気を出して実行するか否かである。勇気を出そうにも、出鼻を挫かれることがあるし、勇気の源が枯れていると思うこともあるだろうが、結局は信仰を働かせることだ。信仰のないところに祝福はない。「あなたを見放さず、あなたを見捨てず、すべての仕事を完成させてくださるからだ」(20節)と語る主に信頼して、神が託してくださった働きに大胆となりたいものである。