2サムエル記11章

11章 ダビデの犯した罪
<要約>
おはようございます。ちょうど、5時になると、四十雀が一斉に囀り出す、そんな季節になりましたね。日々一刻と、知らずに夜の開ける時間が早まっていく、宇宙の動きを感じます。偉大な神の御手に守られて、今日も一日あることを覚えるところです。矛盾だらけの世の中の動きと別に、刻々と動いている神の動きがあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.罪人ダビデ
「年が改まり、王たちが出陣するころ」つまり、厳しい冬が過ぎ、戦闘が開始されるに都合のよい時期になったころ、ダビデはどうやらエルサレムに残って他の国々の王のように「暇つぶし」をしていたようである。2節「歩いていると」は、当てもなく言ったり来たりすることを意味する同志である。夕暮れ時に起き上がったダビデは、見晴らしのよい屋上に上がり、ぶらぶらしているうちに一人の美しい女を見つけた。原文には「見るに」とあり、見つけて凝視した様がわかる。ダビデはその女の素性を調べさせ、夫がいる女性であることを十分承知しながら、宮殿に召し抱え、一夜を共にするのである。
これまでよく耳にすることは、ダビデが栄光の頂点にあった時に罪を犯した、というものだろう。しかし、文脈的には、ダビデがハヌンに遣いを出す前の出来事であった可能性がある。つまり11章のアンモン人との戦争は、ハヌンの出来事(10:1-5)を契機としており、ヨアブは、「年が改まって」出陣したのであり(11:1)、それによってダビデ王国は、ヨルダン北東方面に大きく拡大したのであり(10:6-19)、その拡大前に事件が起こった(11:2-27)、というわけである。彼は、やることがなくて暇つぶしをしていたわけではなかったのだ。
ともあれ女性は身ごもった。ダビデは秘密を守るために、彼女の夫を戦死と見せかけ殺すように謀っていく。全くの悪人である。かつて詩篇63篇を歌い神とともにある幸せを歌ったダビデその人とは別人のようである。しかしこれが罪人の現実なのだろう。100%の悪人もいなければ100%の善人もいない。純粋で美しい心もあるが、汚くおぞましい心も併せ持っている。ダビデはある日突然ワルになったわけではない。ダビデは神を求める人でありながら、本質的にそのような弱さがあった、ということだ。聖書は、ダビデがウリヤに質問をしながら、ウリヤの答えを記録していない。鋭い人であれば、ダビデがウリヤの答えに興味がなかった、殺伐とした心を持った人間を描いていることを感ぜずにはいられないのである。契約の民ではないヒッタイト人ウリヤの誠実さが、契約の民であるダビデの心の問題を浮き彫りにしている。クリスチャンになる人ならない人に、本質的な差があるわけではない。
ただ、誠実なウリヤが、その忠誠心の故に命を落としたことは、実に世の矛盾として残念なことである。しかも、将軍ヨアブも、ずるがしこくダビデの共犯となり、神の契約の民の中に公然と悪が行われていく。これは、荒野の40年のイスラエルの民のつぶやきや反逆とは全く性質が異なっている。実に痛ましい、悲しい状況が起こりうるのが人の世というべきなのだろう。ふざけるな、神も何もわからぬ、と信仰を卒業したくなる思いに駆られるのは、こんな時だろう。
2.罪人を赦す神
だが「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」この一文が、聖書の関心の置き所を示している。本来ダビデの輝かしい業績の中に挿入されたこの事件の記録は、聖人の闇を暴露するものでも、客観的な歴史的な記録を残しているのでもなく、人間に対する神の関わりを物語ろうとしていることを示している。罪人に対する神の取り扱いが、聖書の中心主題なのである
だから、ダビデは、ウリヤの死に際して、「このことに心を痛めるな~あなたは彼を力づけなさい」(25節)、と事の真相を知らない人が聞いたら、実に感涙する懐の深い善良な王のようなことを言っている。しかしダビデのそのような裏の闇を語ることが中心ではない。むしろ聖書は、あわれみ深い神が、このダビデと将軍ヨアブの共謀、そして深まる闇の動きを、どのように取り扱っていくのかを語ろうとしている。
そこでその中心となる12章に入る前に、もう一つ考えるべきことは、ダビデはサウルに追われていた時には、サウルを殺すチャンスがあっても、自分は人の命をあやめるなど神の前に間違ったことはできない、と実に立派な態度をとっていたのであるが、ウリヤの妻バテシェバの時にはそうではなかった点である。人間は、苦しみや痛みを持っていたほうが人間として真実な歩みができるのではないか、人間というのは慢心しやすいものだからむしろ積極的に痛みを負って生きていった方がよいのではないか、と思わされるところだ。パウロは言う。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:7-10)。
痛みを負ってこそ人間らしく生きるところがある。そのような意味で、色々と得にもならないことをして、むしろ損をしたり、痛みを負ったりすることの方がよい仕事ができる、人間らしい歩みができることがあるだろう。人間は慢心し易い者である。最良の予防策は、痛みを負っていくことにある。それはパウロ的に言えば、キリストの力を現すために、神様が与えてくださったとげを受け入れることだ。痛みがあることで、謙虚にさせられていることを大事にしたいものである。ますます神に拠り頼み、人間として日々、正しい歩みを踏みしめていくことができるように祈ることとしよう。

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