12章 ダビデの悔い改め
<要約>
おはようございます。世は矛盾に満ち、神の共同体の中にもそれは紛れ込むことはあるものでしょう。しかし、神の正義は決して揺るがず、神の律法も決して変えられることはありません。人間にとって最大の喜びと希望は、神の正義が、真昼の太陽のように輝くことです。もし人生に不条理なことが起こったら放っておき、神のなさることを見ていくことです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の前に立つダビデ
ダビデはナタンに罪を指摘され、悔い改めへと導かれていく。ナタンは、最初からダビデにとてつもない罪を犯したという言い方はしなかった。しかしこれは、当時の田舎の裁判でよくあるやり方で、まず判例を述べるという方法があったようだ。判例から始めて本件に入るという流れである。そしてこの方法は、裁判の無駄な時間を省いて、ストレートにダビデ自身に罪を認めさせることになった。いきなりダビデは、神の前の被告席に立たされていく。ダビデは告白した「私は主の前に罪ある者です」と。裁判は決した。
先に述べたように、この挿入的物語の意図は、神の正義を語ることにある。世の横暴がなされ、神の民の共同体の中にすら横暴が忍び込み、公然と不正が行われることがある。信仰を卒業したくなる思いになるのはそのような時だろう。しかし、それは神が悪いのではなく、人間の罪の問題である。神は決して、不正を行わない。だから、13節以降、神は、ダビデにあわれみを示すが、神の律法が守られるべきことを、明確にされるのである。神の正義は、決して踏みにじられることはない。不本意なことがあっても、それが決してそのままにされることはない。そこに、人の希望はあるのであり、信仰は卒業するようなものでもない。
2.神に願うダビデ
ウリヤの妻が産んだ子どもは、神に打たれて病気になった。ダビデは、神の前に悔い改め、神のあわれみを求めた。しかし、それは、ダビデの罪の赦しのための尊い犠牲でもあったのだろう、子どもは死んだ。ダビデは、もしかすると「主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない」と期待したが、神の律法は、お手盛りを許さなかった。ダビデは、神に執拗に寄りすがったが、この場合、神の正義が腐りきった神の共同体に示されなくてはならなかった。
彼は、自分のやったことが人間としてまったく正しくない、ということをこうして認めざるをえなかった。だから、そのような自分を認めて、けじめをつけていくことになる。確かに人間が罪過ちを犯すことは避けられない。しかし聖書が教える本当の人間らしさは、そこで「私は罪を犯しました」と自分の罪を潔く認めて、主の正しさと神の律法の不変さを認めることである。そうすれば、「主もまた、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」と驚くべき主の判決が下される。
ダビデはこの人生の転換点にあって詩篇32篇を書いている。「私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。すると、あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました」罪を犯した後の罪責感から、開放され、神との交わりを回復した恵みをダビデは謡っている。罪を犯したことをうやむやにするのでもなく、罪を犯したと落ち込んで、自分の人生はだめだとやぶれかぶれになるのでもなく、そこで本当に個人を取り扱われる神に出会うことである。主の罪の赦しの恵みに与ることである。主の前に立ち、愛の宣告を受けることである。それなくして先へ進むことはできない。
ただ同時にダビデは、詩篇51篇を書き、祈っている。「どうか私の咎を全く洗い去り」(詩篇51:2)私の心を漂白してくださいという祈りである。「私の罪から、私をきよめてください」(51:2)皮膚病が癒されるように、荒れすさんで痛んだ心を新しくしてくださいという意味である。「私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください」(51:9)」。罪を帳消しにしてくださいという意味である。人間は罪赦され、神との交わりを回復したと言え、その心は、日々刻々と主に繋がり続けなければ、元の木阿弥である。だから、私たちの心が新しくされるために神の力を祈り求める。また新しい人生が導かれるように神の助けを祈り求める。これがダビデのしたことである。
確かに世間では色々と失敗をすればなかなか敗者復活をなしとげることは難しい。後ろ指を指し、新しい歩みを妨げる無慈悲な者も起こるだろう。社会は、やすやすと人を赦しはしないものである。そして罪を犯した人自身も、なかなか自分自身を赦すことができない。その人は自分の弱さに、打ちのめされ続けるのである。しかし、神が正しいとしたものを、いつまでも曲げることはできない。罪悪の淵からでさえ、人生をやり直すことができる、それは、神の義を示すことでもある。だから聖書が人間のすべきこととして教えていることは、自分の力で自分の人生を回復させることではない。続けて神の力を求めることである。神のいやしを求めることだ。主が真実で正しい方であることを認めて、その正義がなされることを求めることだ。
3.アンモン人との戦いの結末
ダビデの悔い改めを祝福するかのように、アンモン人との戦いの結末が記録される。11章、12章は、ワンセットになっている物語として読むことができる。この戦いは、ダビデにとっては苦しい戦いになるはずであった。しかし神は悔い改めたダビデに勝利を与えてくださった。またアンモンの王権をダビデに授けた。こんな男に、どうしてここまで、と思わされるところでもある。しかし、人間は、100%正しいわけでもなく、100%悪人でもない。自分自身を見るにつけてもそう思わされるところだろう。神が自分の弱さにも同じようにあわれみの深さを示してくださると、理解すべきところではないだろうか。自分の弱さをはっきり認め、主に告白し、癒される歩みをさせていただこう。