2サムエル記13章

13章 ダビデの罪の結果
<要約>
おはようございます。聖書を読む場合には、どうしても私たちは自分の感情や、自分の経験に引っ張られて読んでいることがあるものです。そういう意味で、多くの説教は、個々のスキャンダラスな物語に集中しがちです。けれども、全体の流れの中で、本章は、ダビデの王位継承の問題が、急遽起こってきたと読むべき箇所なのでしょう。その流れをつかんだ上で神のメッセージを読み解くことが大切なのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.王位継承の問題
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」とパウロは語っている(ガラテヤ6:7)。実に、ダビデの罪は赦された。しかし、ダビデは、家族崩壊の危機に直面した。ダビデの過ちが、子どもたちに影響を与えていく。
神は、人の罪を赦される時に、全くその罪を忘れ去ってくださるのではないのだろうか。それなのに、どうして人は自ら蒔いた種を刈り取らされ、どこまでも償いを迫られ、そのために苦しまなければならない羽目になってしまうのか。神は、本当に人を赦しておられるのか、と思われるところであろう。しかし、人は、往々にして償うべきものは償わなければならないし、それが償いきれない事態に直面させられるのであり、悲しいかなそれが人間社会の現実である。神が罪赦してくださっていることは確かではあるが、人間社会の冷たさの中を凌がねばならない時もまたあるのだ。「剣が彼の家から離れない」というナタンの預言は、ダビデにとって現実のものとなり、彼はどこまでも神の裁きと責めの止むことのない、苦渋の日々に放置されることになる。
またしばしばこの箇所は、「蛙の子は蛙」と言われるように、世代循環する罪人の現実を説明する例であるとされてきた。しかし、親の罪と子の罪は、本来無関係である。どれほど似たような罪を犯すことがあっても、人間はそれぞれ独立した固有の存在である。姦淫の罪を犯した父親の子どもが必ずしも姦淫の罪を犯すわけではない。大酒飲みの親に生まれたからといって、必ずしもその子供も大酒飲みになるわけではない。先例の影響は確かに大きいとしても、それぞれが神の前に罪を犯すのであり、父の故に子が罪を犯すことはない。
だからこの箇所は、色目をもって世代循環を物語っている、と読むべきものではなく、単純にイスラエルの国に起こった後継者問題がどのように進行したのかを理解すべきものなのだろう。つまりダビデの後継はいずれ考えられなければならなかったが、それは突如、誰の目にも不本意な形で生じてしまったのである。自然な流れとなってではなく、急遽、荒っぽい形で、それは考えられなければならない問題として起こってきた。しかも、神の導きを求める形ではなく、神の共同体の中に、忌まわしいダビデとヨアブの組織的犯罪が起こった続きとして、誰もかれもが、世俗的に、人間的にこの後継者問題に対処しようとしたのである。
2.アムノンの死とアブサロム
アムノンは一族の長であり、形の上では王位後継者であった。そのアムノンが殺される。ただその経緯が、ゴシップ風に語られているので、私たちの興味関心は、彼が犯した罪に目が向きやすいことになる。ただ聖書の意図がそこにあるとしたら、既に述べたように、それは、ダビデのみならず、ダビデの家族も皆、神から心が離れている霊的状況を指し示すためであったと思われる。かつて一瞬一瞬神の導きを求めた、ダビデの姿は、もはや描かれていない。そしてダビデは、アムノンに、父としてその罪を指摘し関わることもできずにいた。彼は激しく怒っても、正しいことをなせずにいた。
タマルに起こったことは、あまりにも痛ましいが、実のところ、それは社会の片隅の出来事に過ぎない。それは一個人にとっては、忘れがたい、苦渋に満ちた事件ではあったが、世間からすれば、その後の彼女は一人で侘しく暮らしていた、と書き留められるに過ぎないものであった。実際彼女のことは、世間には忘れられて二年の月日が経ったとされる。ただ、タマルの兄アブサロムは、妹の痛みを決して忘れてはいなかった。そして復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのである。そしてその時が来て、一挙に物事が動いていく。本章に描かれているのは、まさに神と共に歩むことのできない下界の人間の悲劇である。そこに、神の存在は、微塵にも意識されていない。
私たちの日常もそのようになることはあるだろう。しかしどこかで、そのような日常性、世俗性の中から私たちは救い出されなくてはならない。世間が赦さないとしても、また受け入れがたい自分がいようとも、神が赦してくださった事実に立ち続けるのである。そして私はこういう罪を犯したから何も言えないではなく、こういう罪を犯したけれども今の私はこうしたいと思う、と語ることである。自分の罪を棚にあげてとか、あるいは、自分の愚かさをわきまえずにというのではなく、神にあって新しく生きることは、きちんと自分の罪を認めることであり、悔い改めた以上は、神が忘れてくださったものを忘れて、神の言葉に生きることである。いつまでもサタンは、私たちの罪を思い起こさせようとする。そのサタンの策略に捕えられてしまったら、いつまでも新しい人生を歩むことができない。そして真に必要とされる、助言も、叱責も何一つできない者になってしまうだろう。だから、私たちは、罪を悔い改めたならば良い意味での健忘症にならなくてはならない。
いつまでも自分の罪を覚え、自分を弄繰り回すことは止めることである。新しい人生へと促される神を私たちの生活の中から締め出してはならない。今日、心を整理しよう。忘れるべきものを忘れさろう。そして、神が赦してくださったところに完全に立って、新しい歩みをさせていただくこととしよう。

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