14章 ヨアブとアブサロムの画策
<要約>
おはようございます。ダビデ王朝に起こった、王位後継の問題の中で、そこになんとか風穴を開けようと人間的に動いたヨアブ、また良い方向にこれを向けようとしたアブサロム、それぞれの動きの中で、本当に大事にすべきものは、聖霊の導き、神の介入であることを教えられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨアブとナタン
ダビデは、神に悔い改めたが、その霊性はまだ回復されてはいなかった。というのも、ダビデは、アブシャロムに対して敵意を抱いていた(1節)。敵意を抱く心が霊的であるはずがない。見かけは信仰深く見えようとも、内側に敵意を抱いている人に神が臨在されるだろうか。神は霊であり、心を見られる。神は、敵意ある心と共に住まうことはできない。単純なことだが、人はその矛盾に気づかぬことがある。
ともあれ、物語は、神不在のままに進んで行く。そしてヨアブが事の成り行きを変えようとした。彼の入れ知恵は成功し、アブサロムはエルサレムに引き戻された。しかし、事態は、それ以上には進まなかった。そこで引き戻されながら二年間謹慎処分とされたアブサロムが今度は動き始めた。度々使者を遣わしても、動こうとしなかったヨアブに、アブサロムは、業を煮やしたのである。
ヨアブは、なぜ父子の和解に手をつけながら、それ以上関わろうとしなかったのか。父ダビデの心の頑なさと敵意の激しさを感じ、エルサレムにアブサロムを戻したはよいが、これ以上関わらない方が身のためだ、と思ったのだろうか。あるいはアブサロムを引き戻してみたが、引き戻すほどの人物でもなかったと悟り、それ以上動くことも躊躇われたというのだろうか。いずれにせよ、ヨアブは、人間的に画策したのであって、聖霊の導きの中で行動したわけではない。ダビデに対してナタンがしたことと(2サムエル12:1-6)本章でヨアブがしたこととの差はそこにある。
2.根本的な解決の原則
ナタンがダビデに求めたことは罪の悔い改めであった。しかし、ヨアブがダビデに求めたことは、悔い改め抜きの和解である。人間的なムードの回復である。ヨアブの志はよかったし、誰もがぎくしゃくした人間関係が続くのは耐えられない。いやそれ以上に組織の存続に対する心配はあったことだろう。しかしヨアブは、罪人の問題に楽観的であった。深まった敵意の問題は、それぞれが神の前に立たない限り、決して根本的に解決することはない。表面的には和解ムードを作りあげることができても、水面下では、ドロドロしたマグマが熱しているものだろう。ナタンのように、神の前に人を導き出すのでなければ、決して深い変化にはならない。
そういう意味で、表面的には平和的なムードでありながら、お互いに恨みや憎しみ、敵意を抱いたままでいる問題が、人間にはある。私は傷つけられた、痛めつけられた、あるいは、私はあの人が嫌いである、あの人の行動が鼻についてならない、そんな恨み、憎しみ、にがにがしさを抱きながら、表面的には仲良くとりつくろっていることがある。しかしそうした罪の現実が、人の魂のエネルギーを吸い尽くしてしまうのである。
もちろん人間は、完全ではありえないし、一生涯罪人の愚かさを背負って生きている。だから、変わり切れない問題を抱えることも仕方がない。しかし、信仰者が信仰者でありうる理由は、そのような問題がはっきりと認識された時には、神の導きによる解決を求めることであろう。人間的に画策するのではなく、まず神に祈り、霊的に物事を処理しようとする態度を持つことである。ヨアブ的にではなく、ナタン的に処理されることを求めることだ。人間の罪の深さを認識して、聖霊の助けなくして、人間の深い問題は解決し得ないことを覚えて、ただ主に寄りすがることだろう。そのように神の力の働く共同体、つまり、教会を建てあげていきたいものである。