16章 逃亡するダビデ
<要約>
おはようございます。人生には、未知の世界に踏み出す時、というものがあるものです。そこで人は勇猛果敢に自ら、踏み出していくこともありますが、多くは、不本意な試練に見舞われる形で、そのようになることがあるものでしょう。するとどうしてもそのような機会を前向きには受け止められないことがあるものです。しかし全ては神の御心の内に起こること、前向きに、神が呪いを祝福に代える時として受け止めていくことが本当なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.シムイの呪いの意味
アブサロムから逃れる道の途上、ダビデは、シムイとすれ違い、罵詈雑言を浴びせられている。シムイは谷の反対斜面の平行した道を歩いていたので、谷に隔てられたダビデに向かって、これほど威勢よく吐き捨てることができたのだろう。シムイは、ダビデに「血まみれの男」つまり人殺しと叫び、呪った。ダビデの家来、アビシャイが彼の首をはねることを申し出たが、ダビデはそれを制している。
ダビデは、むしろ主がシムイを通して語っておられると積極的に受け止めている。ダビデは、過去の過ちを思い、自分がそのように取り扱われて当然であると思っていた、私は、ずいぶん長いこと、この箇所をそう受け止めていた。自分の身から出た錆ではないが、ダビデは、シムイの暴言を受けながら、何を言われても仕方のないことをしてきたのだから言われるままを受け止めるしかない、と考えていたのではないか、と。しかし、ダビデは続けて言う。「たぶん、【主】は私の心をご覧になり、【主】は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
大切なポイントである。ダビデの確信は、「主は、悪を行う者には、その悪にしたがって報いてくださる」(2サムエル3:39)である。ダビデは、確かに、悪を行ったが、その報いはすでに受けている。しかも神は、いつまでもだらだらと過去の悪を取り上げて、その報いを引きずるようなお方ではない。神はねちっこいお方ではない。むしろダビデは、アブサロムの謀反については、試練ではあるが、神のみこころのうちに起こってきたものであるが、それは、過去の悪とは関わりのない、新しい試練であると考えていたのではないだろうか。だからこそ、今の自分の身の潔白を覚えれば、こののろいは神からのものだ、とうな垂れるだけではなく、やがてこれはしあわせに代えられるという希望を持つこともできたのではあるまいか。
神は過去を引きずるお方ではない。人間はいつまでも過去を引きずるが、神はそうではない。だから罪を悔い改めたら、私たちはそのことを忘れなくてはならないし、何か自分に不利なこと、不名誉なことが起こってきたら、それをいちいち過去の過ちと結びつけるようであってはいけない。むしろ、一つ一つ罪を告白し、神の赦しを受けて処理されたというのであれば、私たちは、常に物事には新しい試みがあるのであって、新しい試練は過去のものとは一切関係のないものなのだ、と受け止めていくのである。だからそこには意外性と同時に、神がなさろうとしていることへの期待がある。
2.
そして、新しい試練のもとには、様々な動きがある。ツィバのように偽りを言う者が近づいてくることがある。一方的な情報しか得られない時には、ツィバのような偽りを見抜くことは難しい。また、その試練の中で心を打ちのめすかのように、シムイのようにのろいをもって、攻め立ててくる者もいる。一番気持ちが萎えてくることではないだろうか。そして、アビシャイのようにこの状況で、思慮もなく目には目、歯に歯はと、暴力的な行動を起こすように誘い込む者もいる。理性的に動きがたい状況にあっては、このような声は、いっそう惨めな結末をもたらしかねない誘惑である。さらに、アヒトフェルのように、敵の側につく、有能な策略家が現れる。敵はますます強くなり、ますます敗北を決定的にさせる、そのような状況が起こりうる。
しかし人間に依存する者に、確固たる勝利の保障はない。アヒトフェルの助言は確かに、神の声のようであったのかもしれないが、アヒトフェルは神ではなかった。すべての方向性を握るのは神ご自身である。そして、神が黙認しておられる試練には、必ず出口がある。「のろいに代えて、私にしあわせを報いてくださる」ということが起こりうることを、私たちは信じなくてはならない。私たちに罪があるならば、それは告白し許していただく必要がある。その上で希望を持つべきであるが、そうでないのならば、私たちはいつでも、主の幸せの希望を信仰によって待ち望まなくてはならない。今日も信仰に立って歩ませていただこう。