<要約>
おはようございます。アブサロムは、策略的でした。しかし、神はその策略を討ち壊すことのできるお方です。人は企てますが、この企てを決するのは神です。ですからたとえ、企てが成功し、追い詰められることがあったとしても、それもまた神の御心の内、神は、神に信頼する者をないがしろにするこはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
17章 フシャイとアヒトフェル
1.二人の助言者
アブサロムは、父ダビデを討とうとしていた。彼の心に父に対する愛はない。もはや単なる敵である。アブサロムは、アヒトフェルの助言を求めた。アヒトフェルの助言は、簡単である。ダビデがまだ弱く、体制が整っていない状況を捉えて、彼を討つことである。それは確かな助言であった。しかし、アブシャロムは、もう一人の助言者フシャイの助言に関心を持った。
フシャイの助言は、別の意味で巧みであった。つまりアヒトフェルが見抜いたことを巧みに否定し、ダビデに体制を整える時間を与えようとしたのである。そこでまずフィシャイは、ダビデの過去の業績に訴え、アブサロムに用心深くあるように促した。軽微な損害も、誇張されて、戦意を失わせる効果がある。アブサロムがひそかに持つ不安にそれは巧みに訴えた。また、「全イスラエルを、海辺の砂のように数多く集め、あなた自身が戦いに出られる」「露が地面に降りるように彼を襲い」とアブサロムにこれからの戦いにおいて、勇猛な征服者となりうることをイメージさせ、アブサロムのプライドをくすぐった。考えの足りないアブサロムがアヒトフェルよりも、フィシャイの助言を好んだのは、言うまでもない。
この書の著者は、アヒトフェルのはかりごとが、フィシャイのはかりごとよりも優れていたことを認めている。実際、フィシャイは、急いでダビデにこの状況を伝え、アブサロムが考えを変えて、アヒトフェルの考えを採用し、即座に追撃する際に備えさせようとしている。ダビデはその日のうちに、ヨルダン川を渡り、逃れている。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行われないのを見て、首をくくって死んだというが、これは単に、自分の助言が採用されなかったことを苦にしたというよりは、自分の助言が採用されなかった結果を悟ったのだろう。ヨルダン川を渡り、ダビデが体制を整える時間を持ったということは、アブサロムの王制は続かず、自分も謀反者として死刑になる、つまり将来もないことを知ったのである。彼が身辺整理をして、首をくくったのはそのためである。彼は有能で計算高い政治家であったが、神が彼の味方とならなかったことは確かである。神の守りは、決してし損じることはない。どんなに優れたはかりごとであれ、神は、それをとどめられることがある。
2.はかりごとを討ち壊す神
アブサロムは、またしても、フィシャイにごまかされ、騙された。しかし、アブサロムにそこまで考える力はなかった。アブサロムがイスラエルのすべての人々を招集している間に、ダビデは戦闘体制を整えるための時間を稼ぐことが出来た。事実、荒野で飢え疲れている彼らのもとに、ショビ、マキル、バルジライの三人の資産家より、思いやりのある援助が届けられた。彼らは一時の安息を得た。
かつて神は、恐れるヤコブに、マハナイムで神の遣いたちを遣わされた。その同じ場所で、ダビデに具体的な神の励ましを送られている。しかし、ヤコブにしても、ダビデにしても、なぜに神はこれほどよくしてくださるのか。ダビデは神の御心を損なっただけではなく、何の罪のない人を殺めてもいる。本来ならば見捨てられてもよい存在ではないだろうか。しかしそこが神の憐れみの深さなのだろう。パウロは、ダビデについて、行いによらず神の恵みを受けた人の例としてあげている(ローマ4:6)。神は物事を正しくさばかれるお方であるが、罪を赦してくださるお方である。赦し人を立て直すお方である。
自分の思いに引きずられて、自分の人生は大した結果にはならないと決めてかかることもあるだろう。あるいは、こんな失敗をして、もう何の希望も持てないと思うこともあるかもしれない。しかし、アヒトフェルの優れたはかりごとを無にして、罪人のダビデを助けてくださった、あわれみの神は今なお生きているというのが、聖書の語るところである。この神に望みを置いて人生を諦めないことである。弱く、不敬虔であり、神に敵対している者には、望みがある。神は愛であり憐れみ深いからだ。