23章 成長する王
<要約>
おはようございます。サムエル記、列王記は、申命記的歴史と言われます。つまり申命記の精神がどのようにイスラエルの歴史に反映されているかを証するものである、と。そのような意味では、王についての戒めを再確認する内容となっています。また、ダビデの勇士たちについてもそうです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヤコブの神、イスラエルの神
ダビデの最後のことば、そこには、ダビデが神をどのように仰いだかがよく表わされている。ダビデは神を「ヤコブの神」と呼んだ。ヤコブには、ずるがしこいヤコブのイメージがある。やはり、神にすがる他、生きるすべのない、自分自身に対する謙虚な思いの故であろう。確かにダビデに必要だったのは、ヤコブに憐れみを示された神である。そしてダビデはまた神を「イスラエルの神」と呼んだ。ヤコブのような自分に多くの恵みを注いでくださった神に、彼は感謝の思いを抱かざるを得なかった。神は、信頼を裏切ることのない確かな拠り所なのである。
2.神に立てられた王
その神が語られる。王はどのような者であるかと。王は、「義を持って人を治める者」であるし「神を恐れて治める者」である。そのような王は、「太陽の上る朝の光のようである」という。この節はよくわかりにくい。これ以降の直訳は、「雲のない朝」「輝きから、雨から、若草、地から」である。つまり「雲一つない朝、上る太陽の光のようであり、その光と雨によって、若草を地から生えさせるごとくである」ということではないか。大切なのは、義しい統治者、神を恐れる統治者のイメージだろう。国を照らし、命を注ぎ、善政を導くイメージである。まことに、サムエル記の著者は、王たる者、「自分のために」ことを行ってはならないという申命記17章の戒めを、ダビデのことばをもって確認しているのである。サムエル記、列王記は、申命記的歴史であり、申命記の戒めを判を押したように確認しているのが、この箇所にも確認される。
3.成長させる神
大切なのは、戒めはすべて、パウロが言うように養育係として機能したことである。著者はダビデに言わせる「まことに神は、私の救いと願いとを、すべて育て上げてくださる」(5節)。信仰の成長、いわゆる救いについては、誰もが神の御業として受け止めることだろう。しかし、ダビデは、私の願いについても神は育て上げてくださると確信していた。願いというのは、ほぼ無意識レベルのものである。そこが成長しなければ、行動も変わらない。そして神は、願いをも育て上げてくださる。いやそれら以外のすべてをも神は育て上げてくださるという確信。大切なことではないだろうか。確かに願いも色々。多くは自己中心な願いであったりする。ただ願いというのは、そうしたものが、育ち、成熟する時に、私たちは、自分にとってもまた他人にとっても、本当に必要なことを願うようになる。神が、私たちを養い育ててくださる、日々霊的にも人間的にもあらゆる面で成長させてくださることを覚えるならば、私たちは謙遜になることができる。王として立てられた以上は、王としても神は育ててくださる。
4.ダビデの勇士たち
さて、ダビデに仕えた勇士たちの名が書き連ねられていく。彼らに特徴的なのは、自分の働きにまったく身を献げた姿である。アホアハ人ドドの子エルアザルは、「自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した」(10節)とされる。また、ハラル人アゲの子シャマの場合は、「民がペリシテ人の前から逃げたが、彼はその畑の真ん中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した」(12節)とされる。
大敵を相手に、全力を尽くし、心身尽きるまで主に献げ尽くす者たちの姿が描かれる。しかし、私たちはどのように主に仕えているのだろうか。ペリシテ人を相手に、神の民があたふたと敵から逃げ去っていくなかで、堅く立ち続けるような者であろうか。具体的な言い方をすれば、教会の困難な闘いにあって、あたふたと去っていく信徒たちがいる中で、教会に留まり、その教会を支えて、これを完成させようとする者たちであろうか。
現実は、戦いを避けているばかりか、教会はおろか、神にすら無関心ということもあるだろう。ずいぶん久しく、聖書に向かい、聖書のことばに取り扱われ、自らの内面を見つめ、自らの成長を祈ることから遠ざかっていることがあるのではないか。自らの霊的成長のために祈りにおいて格闘することもなく、また他の人々の必要のために、祈りにおいて苦悶することもない、そんなことがあるのではないか。破れた祈祷会、敗れた礼拝出席、疎かにされた十一献金、教会の戦いというのは、そういうことではないか。愛をもって働きを守り、支え、前進させる者が必要なのである。
一人一人に、信仰の戦いがある。神の側につく、教会を建てあげることについての信仰的な戦いがないクリスチャン生活はありえない。だが信仰的な戦いのないクリスチャン生活を送ることができるし、そうしてしまうことがある。礼拝すること、祈ること、十一献金をささげること、証しすること、賛美すること、教会を守ること、それらと何かがかち合う時にいつもはどうしているのだろうか。神の側に堅く留まろうとする歩みがあるのだろうか。私たちはいったい何に踏みとどまり、何と戦い、どんな勝利を得ようとしているか。私たちの霊性の方向性を見直したいものである。そして神の勇士の名簿に加えられるような者でありたい。