3章 強くなるダビデ
<要約>
おはようございます。ダビデが王位を獲得するに至るまで、ダビデに関わる人々の様々な人間的な思惑がうごめいていきます。そのような中で神のみこころは進んで行くのです。不思議なことですが、複雑さと混迷が深まる中で、やがて整ってくる神のみこころがあります。ただ主のみこころがなされることを願い祈り、与えられている務めを忠実になすことが重要なのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アブネルの変身
「サウルの家とダビデの家との間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家は、ますます弱くなった」イスラエルは、神の民とされるが、その中でこのような争いが繰り広げられたということ自体が不思議である。なぜ、平和裏に、サウルからダビデへと権力は委譲されなかったのか、とも思うのであるが、それはやはり罪人の世界の現実なのだろう。残念ではあるが、このような形で時が過ぎ去り、やがて神のみこころが実現することがある。神のみこころは紆余曲折を経ながらも必ず実現するのであって、その永遠のご計画が妨げられることはない。
サウルの家では、アブネルがますます力を加えた。それは霊的な指導力というよりも、政治的な力である。しかも、彼は王のイシュ・ボシェテに勝る力を得た。彼は王のそばめを自分のものとした。アブシャロム(2サムエル16:22)やアドニヤ(1列王2:22)の例にもあるように、先君の王妃やそばめを自分のものとするのは、その財産を占有し、王位を得ようとする行為にほかならない。アブネルは、野心があるというイシュ・ボシェテの憶測を否定したが、イシュ・ボシェテのことばが気に入らなかった。もはや自分が従うべき王としては見ていなかったのである。これを機にダビデに寝返っていく。彼はダビデと取引をして、サウルの娘ミカルをダビデに返すことを約束する。アブネルは近い将来ダビデがイスラエルを統一すると読んでいた。こうしてアブネルは、ダビデを王にしようとする神のみこころに積極的に加わっていくことになった。しかし、神のみこころは、政治的な実力者アブネルがいなくても実現しうることであった。ヨアブによるアブネルの暗殺は、神のみこころが人間の思惑とは異なるところで動き、実現することを考えさせてくれる。
2.ダビデの対応
またダビデの行為も、機を得ようとするものではなかった。ダビデはアブネルの死を、自分の意志によるものではないことを、民衆に徹底して示している。ヨアブとヨアブの兵士に、荒布をまとい、葬儀に参列し、その先頭を進むようにと命じた。さらに、アブネルのために哀歌を創作している。短い詩ではあるが、アブネルの偉大さをたたえ不慮の死の悲しみを表している。そして、ダビデは断食をした。こうしてダビデの一貫した態度が「民を満足させた」とある。そして全イスラエルが、アブネルの死が王から出たことではないことを知った、とある。
実に権力移譲の微妙な時期に、ダビデは慎重だったとも言えるのであるが、大事なことは、ダビデは自ら王位を求めようとしなかったことだろう。実際、ダビデは自分が王になるには力なき者であることを知っていた。ダビデは言う。「この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。【主】が、悪を行う者には、その悪にしたがって報いてくださるように。」(39節)ダビデには、強者の将軍ヨアブが控えていた。ヨアブは、略奪を続け、復讐心に満ち、王の権限に縛られず王の意向を考慮することもなく自由に行動する人物であった。そんな人物がそばにいては、ダビデも自分の王位が別の形で危うくされることを感じるところであっただろう。王位にはまだまだ遠い道のりがあった、ということだ。だから、人間の欲が渦巻き、横暴がなされる中で、神ご自身が自らそのみこころを実現に至らせてくださるのでなければ、ダビデの王位は決して確立しなかった。逆に言えば、たとえダビデに王位を確立する力がなかったとしても、神は、約束されたとおりに、ご自身のみこころをなしとげてくださるのである。
私たちにとっても神のみこころがある。神のみこころは個別なもので、第一には私たちが自分たちの救いを完成させることにある。また自分たちが所属する教会、キリストの体として完成させることにある。そのような働きに、力が足りな。いと思うことがあれば、ダビデのように、神を信頼し祈ることが大切なのだ。「今はまだ力が足りない」と。神は私たちをご自身の最善に沿って、導いてくださるものであるし、神は私たちの助け手となってくださる。