4章 サウル家の滅亡
<要約>
おはようございます。物事には目標があり、それを達成する手段というものがあります。しかしより重要なのは、それをどのように達成するかという価値観の問題です。目標は同じであっても価値観が違う時に、人は、たとえ物事が達成されたとしても、そこに違和感を覚えるのです。私たちが何をどのように達成するか、いや達成しようとしているかを考えたいところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.サウル家の滅亡
ダビデは、神のみこころがなされることを願った。血で血を洗う争いになってまで、それを望んだかと言えば違うだろう。サウルの死も、将軍アブネルの死も、またサウルの子イシュ・ボシェテの死も、彼は望まなかったはずである。しかし、アブネルの死は、イスラエルに大きな打撃を与え、事態を急速に転換させるものとなった。これによって、ふたりの略奪隊の長バアナとレカブが、イシュ・ボシェテの政権を、もはやこれまでと見限り、自分たちの王を殺して、その首をダビデに届けるのである。イスラエルは大きく、ダビデ側に傾いていった。彼らも、これによってダビデが喜び、自分たちの新しい地位が得られると期待したのであろう。彼らは言った。「彼らはイシュ・ボシェテの首をヘブロンのダビデのもとに持って来て、王に言った。「ご覧ください。これは、あなたのいのちをねらっていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。【主】は、きょう、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。」(8節)。彼らは、まるで主の裁きの執行官であるかのような言い方をしているが、それはとんでもない勘違いであった。
彼らはベニヤミンの者であった。つまり非イスラエル人がイシュ・ボシェテを殺したのではない。しかも、自らの栄光のために手段を選ばない裏切りであった。ダビデは彼らのことばを受け入れなかった。彼らはダビデの人柄を読み誤っていた。実際ダビデは自らサウルに手をかけようとしたこともなく、また部下にもそれを許してはいなかった。というのも、ダビデはサウルをもはや敵としては見ていなかった。長年のサウルとの戦いの中で、彼はサウルもまた神に愛された人であり、神に立てられた人であることを認めていた。彼の心の中には、様々な戦いがあったことは確かである。しかしダビデの主にある信仰は、神が平和な形ですべてを導かれることを望ませ、どんな殺人も受け入れ難いことになっていた。そしてダビデは公正な勝利を求めていたのである。
2.ダビデの王位の確立
ダビデはイシュ・ボシェテが正しい人であったことを認めている。確かに、彼はサウルの息子というだけのことであって、彼はサウルの罪に加担していたわけではない。彼は神に敵対して生きていたわけでも、死に値することもしてはいなかったのである。実に、機を狙う者たちが、悲しい結末を引き起こしていくことがある。そのような者たちの蛮行に振り回されない目を持っていくことが大切なのだろう。「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいわけがない、また自分の兄弟を追うことはやめなくてはならない。」(2:26)将軍アブネルの言葉は、極めて重要な真理である。バアナとレカブのように、人間を敵味方に分けて、機を狙う人間の愚かさが、宗教の名のもとに戦争を引き起こしたり、組織の中に様々な争いや悲劇を引き起こしたりするものになるのだろう。
中世の十字軍の蛮行の故に、キリスト教を信じられないという人もいる。しかし、問題はキリスト教にあるのではない。信仰が悪いのではない。信仰が戦争を引き起こしているわけではない。信仰を究極の権威として利用する人間の罪が問題なのである。機を狙って宗教を利用する罪人の問題が理解されなくてはならない。人間が罪人である以上、そのような愚かさは避けられない。またそれによって事態が動いていくこともある。だが、どのように物事を進めるかは、重要なことであり、キリスト者であればキリスト者らしい物事の進め方がある。
というのも、信仰は、私たちの生活を変えるためにある。信仰によって私たちの品性が変わるのでなければ、一体そのような信仰に価値があるのだろうか。信仰によって生き方の姿勢が変わり、何よりも神の愛に生きる人間に変えられていくことがない限り、私たちの生活の場に奇跡は起こりえない。私たちが神を信じることは、自分自身が変わることであるし、さらには家族、共同体、そして社会が変わることなのである。今日も真に変えられた心をもって、歩ませていただくこととしよう。