10章 主に仕えるエフ―
<要約>
おはようございます。人間は矛盾したものです。その矛盾は一夜にして解決できるようなものではないでしょう。大切なのは矛盾を抱えた自己を正しく評価し、受容しつつ、神の力で変えられることを期待していくことです。自分で何とかしようと思わずに、神に期待いたしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エフーの粛清
エフーによるイスラエルの宗教改革が行われる。それはまず、アハブ一族を根絶やしにすることから始まった。エフーは、イズレエルを拠点とするアハブ一族を皆殺しにするように、彼らの養育係に通達している。これに応えてアハブの70人の子が殺されている。エフーの行為は、激しく狂気じみているようにも思われるが、それは、エフー自らも言うように、「私の主に対する熱心さ」の故であった。エフーは、預言者エリシャによって語られたとおりに、まさに主君アハブの家の者を打ち殺し、主のしもべである預言者たちの血の復讐をしたのである(9:7)。
2.エフーの矛盾
エフーは、さらにサマリヤに住むアハブの家の者を滅ぼした。それによってアハブが妻イゼベルとともにイスラエルに持ち込んだバアル礼拝、アシュタロテ礼拝を追放し、根絶していく。「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりである」と、盛大なバアル礼拝を挙行し、バアルの信奉者を皆集め、一挙に殺してしまうのである。エフーがしたことは、ある意味で騙し討ちであるが、エフーなりの主に対する熱心さの現れであり、バアルの信奉者たちを徹底的に絶滅させるものとなった。
ただし、エフーはヤロブアムの罪、つまり金の子牛に仕えることはやめることができなかったという。主はエフーについて語る。「【主】はエフーに仰せられた。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行った」(30節)「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、【主】の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった」(31節)と。
エフーの主に対する熱心さは徹底していた。しかし、彼は二心であった。バアルも金の子牛も同じである。彼は主と偶像を天秤にかけて主を捨て去ったわけではない。主にも偶像にも仕えた。彼は矛盾した信仰を持っていた。一方主もエフーの熱心さを認めている。そして主は、エフーの忠実さを正しく評価し、認め、祝福を与えられている。しかしその矛盾もまた見過ごしてはおられなかった。
3.自己矛盾に対する神の取り扱いを受ける
人間は、矛盾した生き物である。ある面では神に熱心でありながら、別の面では全く反逆的であったりする。ある面では完璧のように見えて、別の面では全く抜けだらけであったりする。問題は、そのような自己矛盾にも気づかず、信仰の歩みを続けてしまうことだろう。信仰生活は、自分に気づくことが全てである。引き下げの心理がある、劣等感がある、神を信じているようでいながら信じていない、そんな自分の考え方の癖や行動特性、そして自己矛盾に気づいていくこと、気づいたら気づいたで、信仰を持って神に近づき、神に自分の課題を打ち明ける、そんな率直さなくして霊的な成長はない。
信仰を持つことにおいて大切なのは、イエスの弟子になろうと決心するのみならず、気づきのある弟子になることである。ただ弟子になるだけの人は、他の弟子と同じことを心がけることをもってってよしとするだろう。しかし、気づきのある弟子は、自分に語られていることに気づき、それに応じようとする。そこで初めて成長する弟子となる。
「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者」(2テモテ3:7)であってはならず、学び、真理を悟り、さらに成長し、4代目までの祝福に終わらず、一層の祝福を受けていく者でありたいものだ。そのためにはまずは、エフーのように語られたことをことごとく行う、忠実さを持ちたい。主に対する熱心さを明らかに示す者でありたい。そして語られたこと以上に気づき、神と良き時を過ごすそのものを喜ぶ、神の友として歩ませていただきたいものである。主が私たちに霊的な気づきを豊かに与えてくださるように。