2列王記24章

24章 南ユダの没落
<要約>
おはようございます。2列王記ももう終わりに近づきました。最後は、神を認めず、神に積極的に反逆する王たちの歴史になります。彼らは結果的に滅びを身に受けていく、あわれみ深い神を信じない結末は実に残念なものです。目先の希望ではなく、主にすがり、主に会って希望をつなぐ人生を歩みたいものです。今日も、あなたが主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エルサレムの滅亡、マナセの罪
南ユダ王国の終焉、バビロン補囚の経緯が記録される。南ユダ最後の王たちは、エホアハズ以降、22年6ヶ月、4代続くのであるが、いずれも悪い王たちである。だからユダが滅びるのは、強大なバビロンの力がパレスチナに及んだためではなく、神の裁きのためであり、神がバビロンを用いられたのだ、というわけである。
エホヤキムは、エレミヤがバルクに口述させた巻物を小刀で裂き、焼いてしまった王である。つまり彼は主を恐れることもなく、主の前に悔い改めることをしなかった(エレミヤ36:24)。それが「マナセが犯した罪のため」(3節)という意味なのだろう。つまり、マナセに対する罪の評価は、偶像礼拝よりも「エルサレムを罪のない者の血で満たした」ことにある。「そのため主はその罪を赦そうとはされなかった」(4節)とされている。マナセは、神殿に偶像を持ち込み、あらゆる偶像崇拝を南ユダにもたらしているが、それ以上に、罪のない者、敬虔な者を弾圧している。伝承によれば、イザヤは、マナセの時代に、鋸で真っ二つに挽かれたとされる(ヘブル11:37)。神がマナセを赦そうとされなかったのは、単なる悪業のためではない。神のことばを拒み、神のことばを退けた罪のためである。神のことばを拒み、悔い改めがないことによって、人は滅びを刈り取るのである。
だから、今日においても、イエス・キリストにあって全ての罪は赦されているとしても、イエス・キリストとのそのめぐみのことばを拒み続けるならば、つまり聖霊によって促される罪の赦しを拒み続けるならば、その人は赦されることはない(マタイ12:31)。神はあわれみ深く、赦しに富んでおられる。しかし、神に赦されない事態になるのは、神の赦しを拒み続けるためである。
2.エルサレムの最期
エホヤキムに続いて、その子エホヤキンが王となった。ネブカデネザルは、エルサレムを包囲し、攻撃し、ついにエホヤキムを捕えた(2歴代誌36:6)。この3か月の包囲期間中に、エホヤキムに代わってエホヤキンが王になったということのようである。エホヤキンはバビロンの王に降伏する。
エホヤキムはネブカデネザルに敵対したが、エホヤキンはネブカデネザルに降伏した。エホヤキムは主に反逆したが、エホヤキンはそうではなかったのか、というわけではない。彼もまた、「すべて先祖たちがしたとおり、主の目の前に悪を行った」(9節)とされる。つまり悔い改めのない人生であり、神を認めない人生であった、ということなのだろう。
問題は、反逆か降伏かではない。主の目の前に悔い改めるか否か、主のことばに従うか否かにある。主のことばに心を開き、主に聞くことが重要なのである。マナセもエホヤキムも、そしてエホヤキンもそのようにはしなかったのである。
14節は、バビロン捕囚(BC598-597年)の状況を伝えている。捕え移された者は、国の指導者層の人々、兵士、職人、鍛冶屋であり、貧しい民衆だけが残された。こうしてイスラエルは解体され、国の道を誤らせた者たちが約束の地から排除されていく。ネブカデネザルは、エホヤキンに代わって叔父のマタヌヤを王としゼデキヤと改名した。ゼデキヤは、「主は正義」を意味する。ネブカデネザルは単純に、自分の戦勝を記念してつけたのだろう。しかし、悪を行うというよりも悔い改めを拒む者が滅びを刈り取るようにされるところに主の正義がある。

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