2列王記25章

25章 エルサレム陥落

<要約>

おはようございます。エルサレム滅亡の記事で終わる列王記を読みながら、そこに、悲痛な思いで終わることがないのは、神のあわれみに対する希望を感じさせるエピソードが加えられるからなのでしょう。神は真実であり、いつまでも怒っておられるお方ではありません。神のあわれみに心を開いてまいりたいものです。今日も、あなたが主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エルサレム陥落

エルサレムが陥落した。ユダ南王国の終焉が記録される。包囲は、実際には、BC588年1月15日に始まったとされる。ネブカデネザルは、この時、介入する恐れのあるエジプトを阻止するため、リブラにおり、フェニキヤの諸港を封鎖していた。エルサレムを包囲していたのは侍従長ネブザルアダンであったとされるが、彼はユダ南王国を兵糧攻めにし、確実に弱らせて落とす方針を取った。

包囲は約2年続き、都が食糧難に陥ると、その包囲を北側で突破し、戦士たちが王とともに夜の内にアラバへの道を急いだという。恐らく、アラバの峡谷と死海南岸を通って逃げ延び、アモン人のベアリスと合流し、反逆の機会を狙ったのかもしれない。しかし、王はその途上捕らえられ、王の兵士たちも四散した。王の子らは皆虐殺され、王は目をつぶされてバビロンに連れ去られた。また、町に残されていた民も、群衆も、捕らえ移され、主の宮の最後の宝物というべきもの、つまり青銅の柱と青銅の海などが、ことごとく、バビロンに持ち去られた。エルサレム陥落である。BC587年8月のことであったとされる。エルサレムはことごとくはぎ取られ、焼き打ちにされ、色あせた世界になってしまった。

しかしながら、これはエレミヤによって警告されたことであった。エレミヤは言う。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差しだし、彼とその民に仕えて生きよ」(エレミヤ27:12)バビロンのくびきを拒むなら、滅び以外に道はないと警告されていたのにもかかわらず、ゼデキヤはネブカデネザルに反逆した。つまり、ゼデキヤは、エレミヤの前にへりくだらず、主に心を閉ざしてしまったのである(2歴代誌36:12,13)。なぜか。ゼデキヤの周りには偽預言者がいたとされる。彼にとってはエレミヤのメッセージよりも、バビロンの没落を告げるハナヌヤのことばの方に期待を抱いたのであるし、ぜひそうであってほしいという願望を信仰とすり替えてしまったのである(エレミヤ28章)。しかしそのように思うのはゼデキヤばかりではない。人は自分の思いを支えることばを探し求めるものだろう。自分が否定されるようなことばは、たとえ真実であっても受け入れることは難しい。ゼデキヤは、ネブカデネザルの激しい怒りに直面する。ネブカデネザルが彼を王にしたとなれば、当然のことであった。

2.イスラエル再生の希望

こうしてエルサレムは滅亡した。絶望的な終局を迎えた後で、列王記の著者は、二つのエピソードを加える。一つは総督ゲダルヤの、バビロンの王に仕えて幸せになるように、というメッセージである。エレミヤのことばの真実さが明らかにされた以上、それは当然受け入れられるべきことであった。しかし、残念なことに、それを受け入れない人々がいた、とされる。

また、もう一つのエピソードはユダの王エホヤキンの釈放と、立場の変更である。BC562年3月または、BC561年4月の事とされるが、バビロンでは、ネブカデネザルからエビル・メロダクに王位が変わっていた。エホヤキンに対する処遇は、戴冠の大赦のようなものではなく、父ネブカデネザルの政策に対する故意的な反動であったと考えられているが、エホヤキンの従順の故に与えられたものでもあった。

二つのエピソードが伝えることは、神は裁かれるが、かつあわれみ深いことだ。神はいつまでも怒ってはおられない。神はイスラエル再生の希望を示された。実際、イスラエルはやがて故郷に連れ戻されエルサレムとその神殿を再建していく。たとえ神の裁きを受け、隷属する身になろうとも、その身に甘んじることが主への従順であり、主のご計画に与ることである。へりくだり、神のことばに心を開き、忠実な歩みをしていくことが祝福の道である。

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