7章 サマリヤの飢饉と奇跡
<要約>
おはようございます。神を信じても、聖書を読んでも何も人生は変わらない、と言われることは多いでしょう。しかし、信仰というのは、信じて踏み出さなければ、結果は出ないものです。最初から何もならないと思うのなら、それまでのこと。最初に、よし信じて踏み出してみよう、というのであれば、いずれちょうどよい時に、神の御言葉の真実を味わうことになるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.サマリヤの飢饉
アラムに包囲されたサマリヤは、大変な食糧難に陥った。「ろばの頭」は、イスラエル人には禁じられた食物である(6:25、レビ11:3)。しかしそれですら、食料とされ、法外な値段で売り出され、「鳩の糞」(NIVでは、イナゴ豆)も1/3リットルが、銀55グラム、つまり、労働者一人の月収以上の値段で売り出される始末であった。一説に鳩の糞は、塩の代用とされたとも、また、ゆり科に属する一種のたまねぎ状の食物の根が鳩の糞と呼ばれたとも言われる。ともあれ、その食糧難はあまりにもひどく、実に悲惨な、自分の子どもを食べて飢えをしのぐ事態にまで及んだ(2列王6:26-31)。
2.エリシャの預言、神の御言葉の真実
そこで、エリシャが預言をする。「あすの今頃、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セア(約7.6リットル)が1シェケル(銀約11グラム)が、大麦2セア(約15リットル)と同じ値段」つまり労働者一人の月収の1/5という格安の値段で売られるようになる、と。侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者というのは、種々の政策において王の絶大な信頼を受けた侍従なのであろうが、その侍従が「たとい、主が天から与えられるようなことがあっても、そのようなことは起こりえない」と反発したのも無理はない。こんな現実をどのように、好転させると言えるのか。それは全く不可能と思われることであった。
だが、神のみことばは真実である。「あすの今頃」と語られた以上、それは、実現するであろう。エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」(2節)。確かに侍従は、神の業によってサマリヤを包囲したアラムの大量の残し物に与ることはできなかった。人の目には、全く可能性のないことであれ、神の目には、可能である。もう一度エリシャを通して神が語られたことばを思い起こそう。「風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。これは主の目に小さなことだ」(2列王3:17,18)。「どうぞ、彼らの目を開いて、見えるようにしてください」(2列王6:17)。「神は天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注がれるお方である」(マラキ3:10)。
結局、神のみことばを疑ってかかるならば、それまでのことだ。信仰のないところに、神の祝福もない。
3.神の有り余る祝福
ところで、事態の異変に気づいたのは、四人のツァラアトに侵された人々であった。彼らは飢饉に際しては、ほとんど食料を手に入れることは不可能であった。どうせ死ぬなら思い切って、アラムに降伏しようと、彼らは出ていくのである。そんな彼らが真っ先に、神の恵みの業に与った。
だれもいないアラムの陣営に入った彼らは、はじめ、次々と、銀や金、衣服などを天幕から運び出しては、それを隠しに行った。しかしそのうちに、自分たちのしていることは正しくないと目覚めるのである。確かに、子どもを煮て食うという異常な飢餓状態の中で、同胞を裏切るような勝手な振る舞いが、裁かれないはずはない。こうした良心の目覚めが、民を救うものとなったことは注目すべきことである。
「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。」(9節)。パウロは、なすべき正しいことを知りながら、それを行わないのは罪である、と語った。なすべき正しいことを示される時に、それを実行することをためらってはならない。損に思えることも、神の大いなる祝福によれば、小さなことである。神の豊かな祝福を、多くの人々と分かち合う者とされたいものである。