15章 アサの宗教改革
<要約>
おはようございます。アサ王のエピソードが当時の読者が置かれた背景にあって、どのような意味を与えたのかを考えて読みたいところでしょう。そうすれば、これが私たちに対する大いなるチャレンジあるエピソードの収録であることもわかります。勇気を出し、力を落とさない。そして主を求めて主の働きに献身する。そこには大きな報いがあるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アザルヤの預言
イスラエルは、神の民であり、神を礼拝する国民であったが、実際のところその礼拝は正しく行われておらず、むしろアシェラ礼拝を始め、様々な偶像崇拝が蔓延している状態であったようである。過去を振り返って預言者は「まことの神もなく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした」と語る。それは「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士師21:25)という士師時代のことを言っているが、アサの時代も同じようなものであった、というのだろう。ただ、アサは、アザルヤの預言の言葉を受けて「異教の祭壇と高き所を取り除き、柱を砕き、アシェラ像を打ち壊し、父祖の神、主を求めさせ、その律法と命令を行わせた」(14:3,4)。また、アシェラのために憎むべき像を造った王母マアカをその位から退けている。
大切なのは、このエピソードが、捕囚帰還の民に、動機づけを与えるものとして語られていることである。確かに彼らは、このエピソードの励まし「勇気を出しなさい。力を落としてはなりません」ということばを必要とする状況に置かれていた(ネヘミヤ記6:9)。彼らもみ言葉に励まされて、応答し、主の祭壇を新しくするチャレンジを受けていたのである(エズラ3:3)。
2.アサの応答
「力を落として」(7節)の直訳は、「手を垂らして」で、やりかけの仕事を放棄せずに、と意味である。「あなた方の働きには報いが伴っている」実に当時の読者への直球的なメッセージである。しかし、同時に今の私たちにも、歴史的裏付けをもって、語り掛けてくるものである。
8節、アサは「奮い立って」忌むべきものを除き去り、主の祭壇を新しくした。「奮い立って」の直訳は「自らを強くして」である。改革は、やはり自らを強くし、心に力をためずにしてはできないことだろう。そしてその力は、アサが預言者オベデの預言のことばを聞いて起こされたように、神のみことばなくして起こりえない。自分の中から出てくるものではない。主のみことばにあって「奮い立つ」のである。
そして彼らは契約を結んだ。これは、まさにシナイ契約を思い起こさせる、つまりイスラエルの民の出発点を確認させる出来事であった。申命記において主の契約が重視され、さらに、そののろいと祝福が確認されたように、彼らもまた、主と契約を結び、主を求めて生きる、その態度を明確にしたのである。
そして、力を落とさず、あきらめず、またこの働きが無駄になることもない、と神を信頼しながら地道に物事を前進させ、彼らはその実を得た。確かに、神を信頼しながら出来るところから手をつけていくならば、時至って、それとわかるような大きな改革が起こりうる。もちろんそれでもなお「高き所はイスラエルから取り除かれなかったが」(17節)という、不完全さが残ることはあるだろう。
変え難い人間の頑なさ、人間の愚かさがある。しかしあきらめてしまえば、何も起こらないし、物事も変わりえない。あきらめず、奮い立ち、この働きが無駄にはならないと、神に励まされて物事を進めていくなら神の業がなされると考えたいものである。そしてアサ王が集中したのは礼拝の回復だ。自己満足的な自己流の礼拝ではなく神のことばに従う礼拝秩序の回復である。真の礼拝を回復させる営みは、必ず報われるのである。