2歴代誌20章

20章 凡人ヨシャファテの勝利

<要約>

おはようございます。本日の箇所は、ヨシャファテの信仰の姿勢に最も教えられるエピソードです。しかも、愚かで、判断力が弱い、ヨシャファテの姿を思えば、それは、実に身近な、親しみのあるエピソードです。ヨシャファテがどのようにして主の勝利の人生を歩んだかに心を留めたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨシャファテの記事の意義

歴代誌は、ヨシャファテについてのエピソードを、約4章に渡って取り上げている。既に述べたように、歴代誌は捕囚帰還後の民に書かれたもので、彼のエピソードがこれほど長く取り上げられているのは、そこに当時のイスラエル人が学ぶべきことがあったからなのだろう。というのも、このヨシャファテの記事からは、主を求める姿勢を教えられる。つまり、礼拝を確立するにあたり、まず重要な姿勢は、神を畏れ、神を求めることであり、その姿勢は、ヨシャファテにこそ学ぶことができるのである。

実際、ヨシャファテは平凡な人物である。彼は、ダビデのようにカリスマ性があったわけでも、ソロモンのように知恵に秀でていたわけでもない。しかし彼もまた神に祝福され安息を与えられている。その秘密は、アモン人とモアブ人の大軍の侵略を受けた時に、彼は、それら異邦の王を支配する神を認め、ひたすら神に祈り求め(3節)、不器用にも「ただあなたに私たちの目を注ぐのみです」と主に助けを求める、信仰的に忠実な姿勢にある。

かつて箴言の著者は、「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9:10)と語ったが、知恵が欲しいと願いながらそれほど知恵も与えられない状況に苦しむのが凡人である。しかしソロモンのように知恵ある者ではなく、むしろ無分別の判断力の悪い王であっても、主を畏れる時に、知恵ある者のように守られた歩みができることをヨシャファテのエピソードは示している。そのような意味で、歴代誌は非常に等身大のことを語っているのであって、いかなる人をも神に向かわせ、動機づける書と言えるだろう。

ヨシャファテの祈りには、四つのポイントがある。神の主権と力を認める賛美、(6節)神の契約に対する信頼(ソロモンの神殿の祈りが前提)(7⋯9節)、侵略者についての訴え(10-11節)、救いへの懇願(12節)である。そして懇願にこそ、私たちの模範とすべき、また私たちの口のことばとすべき祈りがある。

2.ヨシャファテの勝利

さて、ヨシャファテは、主の戦い、主の救いによって、モアブとアモン人の連合軍に勝利した。このエピソードに顕著なのは、「主がイスラエルの敵と戦われた」ことであり、「堅く立って、主の救いを見る」信仰を保ち続けた、つまりただ主にすがる他ない弱き者が傍観者のように戦争に加わり勝利した姿である。そして神は、まさにその弱き者を守り、祝された。先の恐れと今の喜びは対比されて語られており、また先の脅威と今ある平和も対比されている。

ただヨシャファテに対する神の評価は、全面的によしとするものではない。というのも、彼は確かに、主の目にかなう歩みをしたのだが、「高き所は取り除かなかった」とされる(33節)。しかも、彼はその後、イスラエルの王アハズヤと同盟を結んでいる。ヨルダン川東側の王たちの同盟に対抗する意味があったのだろう。困難にあって主を求めていながら、安息を与えられると主を忘れるのは、まさに凡人そのものだ。そして、彼の同盟による、貿易振興の計画は、主によって「打ちこわされ」ていくのである(37節)。

私たちが主を忘れる時に、どんなに物事がうまくいくと思いつつも、そうではないことがあるものだ。しかし、主を恐れる時に、どんなに不可能であろうとも、主が可能にしてくださることがある。神の業があり、神の救いがある、神が味方になることを私たちは覚えなくてはならない。私たちの力以上に、神が働いてくださることを、私たちは知らなくてはならない。神は確かに生きておられる、それは空想ではなく、また凡人にこそ、いや弱い者にこそその力は働くことを私たちは知り、神を畏れなくてはならないのである。

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