2歴代誌22章

22章 ヨラムに続くアハズヤ

<要約>

おはようございます。神を信じるということ、それ自体が希望であるはずです。全く何も望みもない、消え去りそうな、いや消え去ったともしびが復活していくことを信じていく、主の栄光の業のゆえに、というのが信仰でしょう。神に望みを抱きたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アハズヤの統治

「心を尽くして主を求めた王ヨシャパテ」の後継者はヨラムからアハズヤへ引き継がれた。二人は、父とは全く異なり、神を求めない王であった。アハズヤは、42歳で王となったとあるが、これは明らかに写本上の誤りで、実際は22歳であった、とされる。となれば彼が、母アタルヤやアハブの家の助言に従い、アハブ家の者のように振る舞ったのは、若さのためであったと理解できるであろう(3節)。アタルヤは神を畏れない北王国イスラエルの王オムリの孫娘、つまりアハブ王の娘である。つまり、彼女の母は主の預言者を皆殺しにしたイゼベルである。そんな母の元で育ったアタルヤが、神を畏れるはずもない。アハズヤが母の影響を受けたとしても不思議ではない。アハズヤは、戦争によって負傷したヨラムを見舞いにイズレエルに下った際に、イスラエル北王国に起こったクーデターに巻き込まれる形で、命を失ったが、著者はこれが神から出たことである、とする。そして母アタルヤは、王の一族を皆殺しにした。つまり、粛清によって自分の身を守ろうとした。

こうしてアハズヤとアタルヤがユダを支配した一時期、ユダは、完全にイスラエルのアハブの支配のもとにあった。また、この世代に、ダビデの家系は、四度にわたる集団殺戮の危機にさらされ(21:4、22:1、8、10)その存続を危ぶまれていく。しかし、神がダビデと交わした契約は破られることなく、恐らく異母兄弟であったのだろう、アハズヤの妹エホシェバが、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、隠したことによって、王の一族は全滅を免れることになる。

2.望みえないわずかな希望に生きる

しばしば、権力者によって混迷した時代を生き延びなくてはいけない時がある。神が存在するのなら、どうしてこんなことが起こるのか、時代が悪すぎて、神の祝福が一向に見えない暗黒が続く時代がある。しかし、神はいつまでも悪を見過ごされるわけではない。神は裁き主であり、救いは彼岸のことのみではない。最も深い闇の時も、正しい支配を建て直すために働いている、目に見えない神の手がある、それを見極めるようにと、このエピソードは促している。

確かに神の見えざる手の業によって、アタルヤの試みは挫かれた。しかし、列王記の記録と違って、歴代誌の著者が注目しているのは、神が興された祭司やレビ人たち、つまり神を畏れる人々の働きによって、神の側に立つ南ユダ王国の希望が守られていくことにある。無力な赤児をかくまいながら、この子どもが大きくなって宗教改革を行いユダ王国にまた神を畏れる正義を確立するなど、誰が確信を持ちえたであろうか。それは、いつ閉ざされる夢と化すかもしれないほんのわずかな希望であったはずだ。しかし、彼らは、そこに望みをつないだ。

信仰とはそういうものだろう。ほんのわずかな希望に賭けていく、いや望み得ないところにこそ望みを抱いていくことである。自分の打った手が、将来どのような望みになるのか、予測出来ない中で、信仰を働かせて、苦難の時代を生き延びていくことである。どのような状況下であっても、神を畏れ信仰をもって踏み始めたことは、神が完成させてくださることを、信じて歩む、闇を突き抜ける信仰に立たせていただきたいものである。

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