23章 アタルヤの顛末
<要約>
おはようございます。ユダの宗教的純粋性が失われ、神の民としてのアイデンティティが途絶えようとするまさにその時に、エホヤダが自らを奮い立たせた姿が、私たちの範として、語られていきます。萎えた心では戦えません。人間的に立たせてもらうのではない、主にあって自らを奮い立たせていく、そのような強さを持っていきたいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.祭司エホヤダの決断
エホヤダは、奮い立って、ダビデ王家に忠誠を持つ軍の指揮官たち、また、ユダの全ての町々からのレビ人を集め、彼らを核に、反アタルヤ勢力を結集した。エホヤダは言う。「主がダビデの子孫について約束されたように、王の子が王となる」(3節)と。
しかし、これは単なるダビデ王家再興のクーデターではなかった。それは、宗教的な意図を持った、王と民が主の民としての歩みを回復するための戦いであった。だからエホヤダは、「彼と、すべての民と王との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせた」(16節)。そして、異教礼拝が徹底して排除していく(17節)。また「モーセの律法にしるされているとおり、ダビデの指示に基づいて、喜びと歌とをもって主の全焼のいけにえをささげさせるように」とレビ人を主の宮に配属し(18節)、門衛を立て聖俗の区別をし、主の民としての秩序を整えた。即位式においては「さとしの書」が王に与えられているが(11節)、それは、王位の証書ではなく、シナイ契約にかかわる十戒、律法を記した書き物であった。新たに立てられた王は、神の戒めの書を与えられて、この神の戒めの書を民に守らせる、ユダ南王国の伝統を守る王の子なのである。全ては、主への従順の回復を目指す結束となった。
2.自らを強くする
ここで祭司エホヤダが、奮い立ったことに注目しよう。ヘブル語ではヒスハッザク、文字通りの意味は「自らを強くした」である。歴代誌に繰り返し出てくる、鍵ことばというべきだろう。このような祭司エホヤダの姿が、捕囚後、壊滅状態にあったイスラエルを再興し、礼拝を建て直す困難に直面していた当時の読者に、どのようなインパクトを与えたのかを考えたいところではないか。つまり、彼らもまた「自らを強くし」奮い立つことを促されたであろう。
萎えた心、後ろ向きな心、意気地のない心では戦えない。結局、全てを善きに導いてくださる神に信頼し、未知の将来を主にゆだねて自らを奮い立たせることができるかどうか、これが、困難を乗り越えるカギである。人の冷たさや意地悪、あるいは無関心に呑まれてはいけないのだ。誰かが奮い立って、神のみこころに身を投じることがなければ、改革も進まない。
しかも主のしもべが奮い立つのは、自己目的のためではない。主の契約を呼び覚ますためであり、主の秩序を回復させるためである。となれば、必要な助けも人材もすべては、そのように主の秩序を待ち望む人たちによって得られるのである。教会形成において大切なことは、主の従順を願う人々を呼び覚ますことだ。自分に人々を引き付けるのではなく、本当に主を呼び求める人々を呼び覚まし、主の側につくように指示していく時に、礼拝も教会の秩序も回復されていく。明瞭に主のことばを語り、主のことばへの結束を促すことこそ、教会のリーダーシップが果たすべきことなのである。主の御言葉に対する応答をこそ、求めていくものであろう。