24章 ヨアシュの信仰
<要約>
おはようございます。私たちの信仰は、直接神に結び付いたものであるのか。それとも神ならぬ何かに結び付きながら維持されているものであるのか。考えたいところではないでしょうか。表面的な行動は似ていても、その内において、神ではない、神を信じる人に結び付いた信仰であったりするものがあるからです。確かな繁栄と祝福に至る信仰は、神に結び付いた信仰であることは言うまでもありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ヨアシュの信仰の特徴
「ヨアシュは、祭司エホヤダの生きている間は、主の目にかなうことを行った」これがヨアシュの信仰であった。つまり人に依存する信仰である。神ではなく、神を求める人々に結びつく信仰であって、それらの人々が熱心であれば熱心にもなるし、そうでないならば信仰からも遠ざかり、反逆すらしてしまう依存的な信仰であった。
24章前半は、そのような依存的な信仰が良く働いた面を記録している。ヨアシュは祭司エホヤダとレビ人を呼びつけ、主の宮を新しくするように命じている。宗教改革の後、バアル礼拝の場として用いられた神殿は荒れ果てたままであった。宗教的純粋性を誇るユダの民が、王の命令を喜んだことは言うまでもない。主の宮のために多くの献金がささげられ、神殿は修復された。エホヤダに影響されたヨアシュ王のリーダーシップが、よきに働いた例である。
しかし、エホヤダ亡き後、ヨアシュの生き方は全く変わってしまう。王はユダのつかさたちの声に耳を傾けるようになるのだ。それで、ユダのつかさたちが、アシェラと偶像に仕えるようになると、ヨアシュもそれに倣い、終いには神から遣わされ、真の神に立ち返るようにメッセージを語るエホヤダの子、ゼカリヤを殺してしまう。聖書は、彼が「エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず」(22節)と、彼の罪を明らかにする。そのために、神はユダの大軍勢を少人数で来たアラムの軍勢に渡された。ヨアシュのリーダーシップが、悪い方向に向いた例である。
人に依存した信仰は、依存相手の良しあしに左右される。ヨアシュはエホヤダに依存し、ユダのつかさたちに依存した。依存的な信仰は、直ぐな道を歩むことを妨げる。信仰において成長しようというのなら、自らの信仰の有り様を吟味し、本当に、神に直接結びつく信仰に立つように努めなくてはならない。
2.人に依存した信仰
ちょうどクリスチャンホームの子どもは、親の信仰から自立して、自分自身の信仰を問われる時期があるものだが、クリスチャンホームに育たない、一代目であっても、ただ漠然と神を信じる人に結び付いた信仰を持っていることが多かったりする。親でもない、伴侶でもない、牧師にでもない、あるいは、気に入った信仰図書の著者でもない、ただ神につながる信仰を大切にしたいものである。聖書を読まないクリスチャンは、やはり人につながりやすいところがあるだろう。そして、聖書よりも聖書について書かれたものをを読んで燃やされているようなクリスチャンも、その危険性に注意すべきだ。しかし聖書を読んでいればよい、というわけではない。聖書を読むことと聖書を通して神に語られていくことは違うものがある。大切なのは聖書を通して語る神にしっかり向かい合うことだ。聖書を読んでいればよいのではなく、聖書を通して神に語られて、神のことばに聞き従うことなのだ。
歴代誌の読者がどんな悔い改めをしたのかを思い起こしたいところだろう。彼らの悔い改めは、生まれつき異教的な環境で生まれ育ち、神を知らなかった日本人のクリスチャンとは違う。日本人のクリスチャンは、神を知らなかったことについての悔い改めが基本である。神を認めていなかった、聖書の信仰と倫理に生きていなかったということの悔い改めだ。しかし、捕囚から帰ってきたユダヤ人は、聖書の神を知らないわけではない。そして彼らは、旧約聖書の教えにも触れていて、その通りに生きることを教えられていた。彼らの神は、形式的な信仰、生ける神と向かい合っていないことへの悔い改めであった。
ヨアシュの生き方は、直接神に結びつかない偽物の信仰の結末をよく現している。神に直接結びつく信仰を大事にしたいものである。そして、神に直接結びつくことを促す友こそ、つまりゼカリヤをこそ、私たちの真の友、私たちの永遠のいのちを守る友と見なす知恵を持つこととにしよう。