25章 アマツヤ
<要約>
おはようございます。昨日のメッセージに不足があったので、初めにそれを付け加えておきます。やはり聖書通読ブログの成果が問われるのは、文脈的な読み方ができるかにあるのでしょう。聖書の流れや全体的な理解から読み解いていく、ということが大事なのだと思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.「繁栄を逃すのか」の意味
昨日のブログにもう少し補足をしておこう。ゼカリヤは20節、「あなたがたはなぜ繁栄を逃すのか」と語った。その意味は、主に逆らって祝福を逃すのか、という単純なご利益的な警告ではない。むしろ歴史的な警告である。聖書通読の意味は、文脈的な理解を進めていくところにある。つまり文脈、少し歴史をさかのぼってみれば、ヨシャファテの時代に、多いに主が誇りとされ、主を中心とする神の民の形成が進んだのに、思慮のないヨシャファテのゆえに、王国は一つのリスクを背負っていく。ヨラムとアタルヤの結婚である。アタルヤはイスラエル北王国のアハブの娘、つまり偶像崇拝者イゼベルの娘である。その母に育てられた娘と結婚したヨラムは、当然、ユダ南王国にイスラエル北王国の偶像崇拝を持ち込み、せっかく父祖の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルの行いに倣わず、ダビデの最初の道に歩んだ父ヨシャファテの努力を水の泡にしてしまうのである。そしてヨラムの息子アハズヤは、一層、偶像崇拝に拍車をかけていくことになる。そしてアハズヤが死ぬと、悪女アタルヤが政権を握るようになり、アタルヤは、ダビデの子孫をことごとく、粛清し、神に従うダビデの伝統を徹底的に消し去ろうとする。こうして、ヨシャファテの時代、ユダ南王国からは、高き所とバアル、アシェラはことごとく取り除かれたのであるが、再び、街には、偶像があふれかえるようになったのだ。ユダ南王国の街の景観は、数十年を経てして、全く異なるものとなってしまった。だが、そこに祭司エホヤダが、粛清からヨアシュを救い出し、7年匿って、ダビデの伝統を回復したというのが、23章のクーデターの意味である。そして、24章の前半は、イスラエルを再び神の民の国とした、エホヤダとヨアシュの改革努力が語られている。その最も最たる頂点は、14節、神殿が修復され、新しくされ、エホヤダが生きている間、「絶えず全焼のささげ物が献げられた」、ということである。イスラエルは、全焼のささげ物を献げ、神の赦しと愛と恵みに生きる、素晴らしい神の民の国を再興したのである。ところが、エホヤダが死ぬと、ヨアシュは、この努力をまったく無にしてしまう。だから、そこにエホヤダに与えられた神の意思を継いだゼカリヤが興され、「なぜ主の命令を破り、繁栄を逃すのか」(20節)と語られるのである。繁栄は、「栄える」、または、「成し遂げる」と訳されることばである。本当は、このような文脈を汲んで、なぜダビデの伝統に立ち、偶像を一掃し、真の神にのみ仕える、神の民の形成の努力をなぜ中断するのか、「なぜ主の命令を破り(神の民再興の働きを)成し遂げないのか」と訳すべきところではないか。実際それが、歴代誌の著者の意図であったことは間違いない。歴代誌の読者は、神殿再建を妨害によって妨げられていた人々である。彼らに向かって、なぜ神殿再建、神の民の再興の努力を止めてしまうのか、再建し続けよ、と、語り掛ける神のメッセージは、ハガイ書や、マラキ書と一緒に、力強く、彼らの歴史からのメッセージとなったはずなのである。ただ神々を喜ばせるいけにえをささげる偶像崇拝者ではなく、全焼のささげ物をささげ、その本質的な意味、つまり罪のゆるしと宥め、という素晴らしい恵みに生きる神の民の形成の努力を成し遂げるべきではないか、というのが、ゼカリヤのメッセージなのだろう。その罪の赦しと恵みの祝福を退けるならば、主を捨て去ることになる。確かにそのとおりである。私たち日本の教会においても罪の赦しは、教会の第一の本質的なメッセージである。その罪の赦しと恵みが語られる教会形成の努力はいとも簡単に、神々にいけにえをささげるような偶像崇拝者的な営みに堕し易いものである。教会が、律法主義的な集団になり、儀式を重んじるカルト集団的なものとなり、その逆に単なる大衆受けの良い、しかし忙しい行事屋になることはありうることだ。しかし、教会は、キリストという全焼のささげ物が明確に示されるところ、つまり罪の赦しと神の宥めを高らかにかかげ、その祝福を大いに宣言するところである。その旧約的、新約的伝統をしっかりと示し、そこを守る努力あるいは、そこを建て上げる、再興する努力を怠ってはならないのである。
2.アマツヤの改革
さてヨアシュを継いだアマツヤは、「主の目にかなうことを行ったが、全き心を持ってではなかった」(2節)と言う。歴代誌の著者は、そのアマツヤについて、いくつかのエピソードを取り上げる。一つは、彼が王位に就き、強くなると自分の父、王を撃ち殺した家来たちを殺したものの、神の律法によって処刑者をむやみに増やすことはしなかった、というものだ。彼の心には、主を恐れる思いがあったのだ。
次にエドムとの戦争のためにイスラエルから銀百タラントで十万人の勇士を雇ったことである。往時のイスラエルは、アサの時代で58万(14:8)、ヨシャファテの時代で116万(17:14-18)の戦力を誇っていた。しかし、彼が集めた精鋭は、30万、いささか力不足と思えたのだろう、傭兵を雇ったという。しかし、これも神の人に反対されると、惜しみながらも手放している。神のことばのとおりにしなければ、よからぬことが起こる、とでもいような不安があったのかもしれない。彼は預言者のことばに従ったが、それは、本心ではなく、迷信的な恐れによるものであった。
3.アマツヤの本心
そうしたアマツヤの本心が明らかとなるのが、セイルの神々をイスラエルに持ち込んだ事件である。つまり、アマツヤは、預言者のことばを受け入れ神に従ったものの、その戦争の結果は不本意であると思ったのではないか。精鋭30万で(5節)、1万人を捕え、確かに勝利を手にしたのであるが(11節)、預言者が言ったように、「多くのものを神に与えられた」わけではない(12節)。逆に預言者に聞かずイスラエルの勇士10万人をプラスしていれば、それ相当のものを手にしたかもしれない。しかも、イスラエルの勇士を返した結果、彼らは帰り道、腹いせにユダで略奪して3千人を打ち、さらに多くの物をかすめ取った(13節)のであるから、結局損失の方が大きい、帰さなかった方がよかった、と考えたのではないか。神に従っても、得なことはない。自分の判断の方がよい、というわけだ。
こうしてアマツヤの心は神を離れ、当てつけをするかのようにセイルの神々を持ち込んでこれを拝み、預言者に反対されると、あからさまに王権を振るって退けている。
4.アマツヤの敗北
17節、慢心した彼は、イスラエルとの戦争を、よく考えた上で始めたという。「よく考えて」は、「協議の結果」を意味する。協議の相手が記されない言い方であるから、自分と協議して、つまり自問自答して、「よく考えて」ということになる。
アマツヤの宣戦布告に対して、イスラエル北王国の王ヨアシュは警告を発する。
レバノンのあざみは、エドム、レバノンの杉は、イスラエル北王国、そしてレバノンの野の獣は、ユダ南王国の比喩だろう。レバノンのあざみは(エドム)、レバノンの杉(北王国)と同盟関係を持とうとした。ところが、そこにレバノンの獣(ユダ南王国)が現れて、あざみ(エドム)を占領し、自分には力があると高ぶり、レバノンの杉(イスラエル北王国)に戦争をけしかけようとしている。しかしそれは身の程知らずもいいところだ。ユダ南王国とイスラエル北王国の戦力の差は明らかで、ユダ南王国は打ち砕かれるだろう、という警告だ。
だが、実際問題よく考えて、よしと決めたアマツヤは、引っ込みがつかなかったのだろう。結果的に、ユダ南王国(野の獣)は警告されたとおり、イスラエル北王国(レバノンの杉)に打ち負かされ、部下はそれぞれ天幕に逃げ帰り、アマツヤは捕虜となり、エルサレムは略奪され、人質を取られる散々な結果となった。そしてアマツヤは、臣下に裏切られ殺されるのである。
捕囚後の民に礼拝の再建を教えようとするにあたり、このアマツヤのエピソードが伝えるものは、彼の心の変節の中に、神を恐れても、愛する思いのない人間の罪性を理解することなのだろう。神を迷信的に恐れるだけの信仰者に、しぶしぶの従順はあっても神と認めた礼拝はない。神を心から愛するところにこそ、神に対する真の従順があり、礼拝の再興も起こりうるのである。エルサレム再建を目指すように促されていた歴代誌の読者が必要としていたメッセージはまさにそういうことではないか。そしてこの日本に、まことに神を恐れる教会を再建している者たちが必要とするメッセージも然りなのである。信仰はパフォーマンスではない。神を心から愛する歩みなのである。