2歴代誌36章

36章 悔い改め無き王たち

<要約>

おはようございます。人は弱く、迷いやすく、また頑迷な者でしょう。神は人間がそのような小さな者であることをよくご存じです。大切なのは、常に過ちを認め、悔い改め、主に従う心を持つことででしょう。柔らかき心、遜った心をもって、主にお従いする道を進ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ユダ王国末期の四人の王

2歴代誌は、どのように主の宮が建てられたかという物語から始まっている。その終わりは、どのようにその主の宮が破壊されるに至ったかを記す(18,19節)。ソロモンによって建てられた主の宮は、カルデヤ人によって焼かれ、破壊され、中の器具、財宝はすべてバビロンへと持ち去られた。そして剣を逃れたイスラエル人は、皆、バビロンへと連れ去られ奴隷とされた。

こんな不幸がどのようにして起こったのか、イスラエルの祝福は、反逆によらず、ただダビデの故の祝福であったはずである。つまり、イスラエルが祝福されるのは、ダビデと神の契約に基づくものであって、それは決して変わることのないものであったはずだ。私たち自身も、イエスの十字架の契約によって取り消されることのない祝福に与っているはずであるが、それが取り消される事態になることがあるのだろうか。

これまで2歴代誌が記してきたことは、ダビデの契約のゆえに、罪を犯し、反逆を重ねた王であれ、神の前に遜ると、赦され回復されることであった。しかし、最後の章において、2歴代誌が記すことは、ユダ王国末期の四人の王、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤが、主の目の前に悪を行い、主の道からそれ、彼らはついに回復されることがなかったということである。そしてこれら四人の王は、一つのパターンによって一緒に扱われている。彼らのした悪、捕囚にあったこと、そして財宝が取られたことで、これらは、神に対する不信の結果として描かれている。

2.悔い改めを拒む罪

ゼデキヤは、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだることがなかった。王もまた祭司長も民も、神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにした(16節)。災いは悔い改め無き信仰の故であった。確かに主イエスも語られている。「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)赦されない罪があるとすれば、それは、悔改めを促す聖霊の働きを拒む罪である。人はどんな罪も冒涜も赦される。しかし、そこで悔改め、神の道に立ち返ることを拒む時に、それは赦されない罪となる。罪に重い罪、軽い罪があるわけではない。問題は、悔改めを促す聖霊の働きを拒むか否かである。ゼデキヤも祭司長全員も民も、神から遣わされた使者たちの悔改めの促しを受け入れなかった。つまり自らダビデの契約が守られることを拒んだのである。

私たちは、神の期待を裏切り、主の目の前に悪を行うことがある。いわゆる刑務所入りの犯罪人になることはなくても、信仰者として神の前に不誠実であるが故に、罪を重ねていることがある。そして、自ら悔い改めることがなく、滅びを刈り取ることがあるかもしれない。けれども、神は、常に、あわれみ深いことを忘れてはならない。神は、異邦人の王クロスを通して、ユダの回復を導かれた。実に、神の大いなるあわれみのゆえに、私たちは倒されても倒され続けることはない。神は怒ったままではおられることはなく、そこに人の希望がある。だから悔改めを促されている時には、迷わず悔い改めることである。神を恐れ、いつでも、謙虚な思いで歩ませていただきたいものである。

 

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