4章 奪われた神の箱
<要約>
おはようございます。サムエル記はいよいよ本題、イスラエルの国家的な問題へと入っていきます。ペリシテの侵略に苦しめられていた、イスラエルが、後の、BC586年のエルサレム陥落に匹敵するほどの、民族的危機にさらされたのがこの章の出来事でしょう。しかし、それが始まりでした。物事の終わりは、始まりを意味するのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルの敗北
ペリシテ人は、既に族長時代から、カナンの地に住み着いていたが、イスラエル民族がカナンに到着してまもなく、大挙して押し寄せ、東西の海岸平野部を占領し、五つの町を建設したとされる。こうしてイスラエルは、士師時代からペリシテと困難な戦いを余儀なくされていた。どちらかといえばペリシテが優勢であり、その結果ダン部族が北部に移住をやむなくされたのは、既に士師記18章において読んだとおりである。
アフェクは、その五都市(エクロン、アシュドデ、アシュケロン、ガザ、ガテ)の最北の町エクロンの約34キロ北に位置し、シロの西方の山麓にあった。イスラエルが陣を敷いたエベン・エゼルは、同じシロ西方の山麓にあり、シロまでこれも約34キロあったと言われ、道のりは、山地へ向かう上り坂であった。ともあれ、この戦いは、イスラエル史上BC586年のバビロンによるエルサレム陥落に匹敵するもので、シロの中央聖所がペリシテによって危機にさらされていたのである。
1節、ギリシャ語訳旧約聖書である七十人訳では、この個所にもう少し説明が補足されている。それによればペリシテがイスラエル攻撃のために軍を召集したので、やむなくイスラエルがこれを迎え撃つために戦闘態勢についたことがわかる。元々劣勢であったのに、イスラエルは負け戦に引き釣り込まれ、その結果も散々なものであったというわけだ。そこで彼らは言った「なぜ【主】は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから【主】の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」(3節)。
たとえ劣勢であっても、主にあって戦うなら勝利することもできる。しかし、この敗北は、予めサムエルによって語られていた主の裁きであった。彼らは、サムエルによって語られた神のことばを心に留めていなかったのであり、その霊性は不信仰者と変わらず、裁きを裁きとして受け止めることができないでいた。だから、彼らは自分たちが負けたのは、主の契約の箱が物理的に側になかったことであり、それを持ってきさえすれば、物事は解決する、と迷信的にこの結果を受け止めている。だが聖書の信仰は迷信ではない。それは、御利益的に偶像を拝む類の宗教とは違うものである。だから仏壇や神棚のようなものは置かないし、神はそのようなものの中に、いてくださって、私たちの味方になってくださるとも考えない。彼らの信仰は、全く地に落ち、この世の世俗的信仰と変わりはなかった。
2.世俗的、迷信的信仰者どうしの戦い
ところでシロは、イスラエルがカナンにやってきてから会見の天幕が置かれた場所であり、士師時代を通じてイスラエルの礼拝の中心地であった。その後エルサレムに神殿を建設したのはソロモンであったが、いつの間にか、シロの天幕は恒久的な建造物となっていたようである。不思議なことに、旧約聖書はこの点について何も語っていない。その後の発掘調査によっても、シロが礼拝の場所であったと伺わせる調度類は見つかっていても、神殿跡そのものは見つかっていない。おそらくモンゴルで定住化し始めた遊牧民族の間でよく見られるゲル(移動式天幕)が、長期滞在化することによって、簡単な作りのまま補強されて、建造物化したのではないだろうか。
ともあれ、形骸化され、迷信化した信仰が彼らのいのち取りとなっていった。ペリシテ人もまた、契約の箱がイスラエルの陣営に持ち込まれた際に、「神が陣営に来た」と恐れをなしつつも、まことの神を知っていたわけではない。そして神もペリシテの手にイスラエルを渡そうと考えておられた。だから奮い立って戦った彼らは、ついにイスラエルを打ち負かすことになる。イスラエルは、壊滅状態となった。しかも神の箱が奪われ、これを知った、エリ、そして彼の息子ピネハスの嫁も「栄光がイスラエルを去った」と力を落として死を迎える。彼らはイスラエルにとっての最大の危機を悟ったのである。サムエル記の初めには、まさに神が臨在されず、人間の思いのままに社会が動き、イスラエルがどん底に陥るような地上の状況が描かれている。もはや後がない、神の栄光は去り、回復され難いイスラエルが描き出されている。
しかし、神がイスラエルを回復させていく物語はこれからである。栄光がイスラエルを去ったというその状況から神の祝福のご計画が語り始められる。大切なのは、望みなきその所で、真に悔い改めをし、神に立ち返り、神の恵みを待ち望み、神に近づくべきことなのだろう。いみじくも「だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれよう」とペリシテ人に語らせた、主との関係を回復することではないか。今日も、主の御前に心を低くし、主の御声に耳を傾け、主の御業がなされることを祈ろう。