1サムエル記5章

5章 奪われた神の箱
<要約>
おはようございます。奪われた神の箱が、ペリシテの領地にあって、自己アピールする、何か喜劇のような話が進んで行きます。人が、神のために、何かをするのではない、神がご自身を守られるのです。こうして読んでみると宣教というのは、人の努力によるものではない、すべては、神がなさっておられることに、与っているのみであることを思わされるところです。神の恵みの業が今日も進められますように。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ペリシテ人の野望
 ペリシテ人は、もともと小アジアに居住していたが、クレタを経由してエジプトに移住し、BC1200-1050年頃、カナン南西部の海岸平野部に定住した民族である。ヨシュア記には触れられていないので、先にも述べたことであるが、少数のペリシテ人は、族長時代にガザ一帯に定住していて、イスラエルがカナン定着後、大挙してやって来た民族ではないか、と考えられている。彼らは、鉄器の武器(1サムエル記13:19-23)を所有しており、高度に組織化され訓練された民族であった。しかも彼らは侵入した地域一帯の住民を征服し、奴隷にしようとすら考えていたようである。イスラエルは、このような民族に支配される危機に陥っていた。
2.神の箱の行方
 彼らは神の箱を奪って、それを戦利品として、アシュドデに持ち去った。ダゴン神を祭る神殿があって、彼らはそこに神の箱を安置したのである。このあたりが、唯一まことの神を求めるのではない、いわば、神棚と仏壇の両方を設置してよしとする日本人の宗教意識に通じる宗教的な混交主義を思わされるところである。ヘブル語の「ダーグ」は魚を意味するので、半魚半人の像であった、あるいは、ヘブル語の「ダーガーン」は穀物を意味するので、豊作を祈願する像であった、と考えられている。後のバアル神の父ともされており、ペリシテの神々の主神というべきものであった。
 神の箱を運び入れることにより、不思議な事が起こった。ダゴン神が神の箱の前にうつぶせに、ばらばらになって倒壊するのである。しかも、宗教的には禁忌とも言うべき、敷居をまたぐ、つまり頭と両腕とが「敷居」の上にあったとされる。明らかなことは、戦いはイスラエルとペリシテのものではなく、イスラエルの神とペリシテの神々とのものである。人ではなく神の力比べである。まるで喜劇のようであるが、神殿に運ばれたイスラエルの神が、もともとあった偶像を蹴りだしたというわけだ。このジョークが分からないペリシテの民に、さらに神は、災いをもってご自身の力を明確にしめそうとされた。
町中に疫病が発生する災いである。「死ななかった者は種物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った」(12節)という。七十人訳聖書には、「そして彼らの土地にねずみが出現し、町中に死と破滅があった」と補足がある。ということは、この疫病はペストの可能性があるが、この時代にペストはなかったともされ、歴史家のヨセフォスによれば赤痢であるとされる。その可能性は少ないが、細菌性の赤痢であるとする学者はいる。それがなんであるにせよ、ペリシテ人は、叫び声を上げた。それは、自分たちの神ダゴンよりも強い神を求める祈りであった。
しかし、彼らがそこで、ダゴンを倒壊させたイスラエルの神こそ、まことの神であると認めることができなかったのは不幸であった。彼らは疫病の発生の原因が、イスラエルの神の箱にあることを認めるのであるが、神の箱にその臨在を象徴されるイスラエルの神を認めるには至らなかったのである。だがこうしたことはよくあることだ。身に不幸が起こると、神がいるならなぜ私はこんなに不幸なのかと人は考える。それを機会に神を見上げるように導いておられる神を見ることができない現実というものはあるものだ。
こうして神の箱は、アシュドデからガテに、そしてエクロンへとたらい回しにされていく。しかしそれは、神が行く先々に偶像の無力さを示し、その故の荒廃をもたらす凱旋行列というべきもので、実際の所、それは、まことの神を知り、まことの神に仕える偉大なチャンスであった。
3.神を神として知る
 天にまで上る叫び声をあげても、それがまことの神を知ることにはならないことがある。何が問題なのか。おそらく、私たちには、自分たちが期待する神のイメージを既に持っていて、そのイメージに合わない神は、受け入れようとしない心があるからなのだろう。だから、信仰を持つには、手ぶらの発想である。文化人類学者のように、自分を無にして観察する知性を心が必要である。色を付けて考えるからわからない。素直に、遜った心を持って、神が啓示されているとおりに神を知り、従う心が求められている。自らの身に起こっていることを落ち着いてよく考え、私たちに関わろうとしておられる目に見えない神の存在を理解し、その神を認めてこなかったことを悔い改め、改めて自分の主として迎え入れる心が必要である。神の招きと導きを見定める心を持とう。

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