パウロは言う。権威を認めて、権威に服従し、よい業に進むように、と。いやいやながらではなく、進んでなされるよい業が奨励される。つまり、信じていることと実際の行動が結び付けられるように、と教えられている。イエスが十字架にかかったのは、私たちをすべての不法から贖い出し、よいわざに熱心なご自分の民をきよめるためだったからである。
だから4節は革命的な「しかし」である。というのも(3節)「以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした」と、キリストにある今とそうでなかった時の有り様が劇的に対比されるからである。「以前」と比較して「今」の自分がどうであるかが問われているのだ。以前は本当に愚かな人間であった。迷いと、欲望と、憎しみに絡めとられながら生きていた。しかし、今、私はそこから神の限りないいつくしみ、つまり本来は受けるはずのない愛を受けて、その現実に気づかされ、解放へと導かれた、ということである。
大切なのは5節、「聖霊」による再生と刷新の洗いである。キリスト者に必要なのは、聖書の規範を手に、自分の行動を自分で律することではない。何とかいい人に思われようと思い切り背伸びをして、結局偽善的な生き方をすることではない。聖霊の業を受けることである。聖霊に変えられることである。神が注いでくださっている聖霊によって、新しい人生に導かれることである。そのように、キリストに与えられた新しいいのちに心を集中させ、そのいのちに生きるように、助けていただくことである。ただひたすら神の恵みとあわれみの中に生きることである。そうすれば、自分がそういう罪の性質から解放されていることに、いつしか気づかざるを得ない。
やはりキリスト者になった以上は、相手をまず信頼してあげる、よい方向で物事を受け止めてあげる、そんな気質と行動が身につくことが大切である。不信感をもって人を見、物事を悪く受け止める、という気質や行動は、罪の性質から自然に出てくる人間の性である。そういう私たちにとって当たり前のことが変えられて行くためには、聖霊の再生と刷新に日々触れることが大切なのだ。
10節「分派」は、は異端とも訳せることばである。彼らは、愚かな議論、系図、口論、律法についての争いにあけくれていた。人々に有益で信頼できることばこそ語るべきで、無益でむだな議論を避けるように教えている。彼らは1,2度戒めてから除名しなさい、という。それは惑わされているというよりは、自ら積極的にそのような罪を犯しているからである(11節)。
続いて、テトスに対して個人的な指示を与える。一つは、ニコポリにいるパウロの下に来るようにという指示。テトスの代わりに、アルテマスかテキコを送ることにしていると語る。テキコは、ローマの獄中でもパウロに仕え、パウロの使者として、エペソやコロサイの教会に手紙を持ち運んだ(エペソ6:21-22、コロサイ4:7-8、2テモテ4:12)。もう一つは、クレテに滞在中のゼナスとアポロが旅行に出られるように世話をすること。律法学者ゼナスは、ユダヤの律法学者ではなくローマの法律家の意味である。アポロと共に伝道旅行をしていたようだ。パウロがアポロを気遣っているのは、パウロとアポロが良好な協力関係にあったことを意味する。
最後の指示は、神の働き人全体に対する指示である。自分も含めて、正しい仕事に励むように勧めている。信者によい業に励むように教えるだけではなく、自らも正しい仕事に励むように教えられなければならない。それは実を結ぶ者となるためである。実に、実を結ぶ人生こそ望ましい。実を生み出す歩みをするように、パウロの同労者として名を連ねる者とならせていただこう。