ヘブル人への手紙1章

神が本当におられるとしたら、私たちは何によって知るであろうか。実際、人間をお造りになり、天地万物を創造した神がいるとしても、その神についてどんなに想像を膨らませたところで知り様がない。人間は造られた有限の者であれば、これをお造りになった無限のお方を知るというのは、ありえないことである。神ご自身が、ご自分について、何等かの方法で明らかにしてくださるのでなければ、私たちは、神について知りえない。逆に言えば、神が沈黙されるなら、私たちは、神を知りたくても知りえない、堂々巡りの思索の迷路にはまり込むだけである。

ヘブルの著者は、神は昔、預言者たちによって、ご自分について語られたが、この終わりの時、つまり今の私たちの時代にあっては、御子によって語られた、という(1、2節)。これは、専門的に特別啓示と言われる。つまり旧約聖書と新約聖書によって神は、ご自身を知りたいという人々に、そのなんであるかを明らかにされたという。だから、私たちが神について知ろうとするならば、まず、神の啓示のことば、聖書に向かわなくてはならない。神は、神秘的な思索の中にではなく、体験的な何かの中にでもなく、聖書を読み解くことによってこそ知られるのである。そして旧約聖書と新約聖書は、約束と成就の関係において読み解くことができるのであり、それは、キリストを中心としている。

では、このイエス・キリストという方はどういう方なのか。ヘブルの著者は、以降、キリスト論を展開するが、まずその初めからイエスの神性について説明しようとする。キリストは、

1)万物の相続者、創造者(2節)

2)神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ(3節)つまり、人格と行動すべてにおいて神であることを示された方である。実際「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」とイエスの言葉が聖書には収録されている。

3)万物の保持者(3節)、つまり宇宙を統御しておられる

4)贖罪を成し遂げ高挙されている(3節)つまり、私たちの一切の罪の罰を帳消しにし、天に戻られた。

しかし、御子についてこのような信仰を持つというのはいったいどのような意味を持つのだろうか。実のところ私たちは、日曜日ごとにイエスを賛美しイエスを愛している、信じていると信仰告白をする。しかし、イエスが神であるというのは、イエスを自らの主とすることである。つまり、イエスを何者にも勝る存在として認めることに他ならない。だが、しばしば私たちはイエスをそのようには見ていない。それは当時のヘブルの著者も同様だったのだろう。だから、ヘブルの著者は、当時の読者が価値を置き、尊崇する事柄を一つ一つ取り上げ、それらに勝るキリストを5節以降語ろうとするのである。

その第一に、ヘブルの著者はみ使いを取り上げる。イエスは御使いに勝る存在である、と(4-14節)。当時のユダヤ人は天使を崇敬した。彼らは、天使は神の敵を罰し、神の裁きを執行する恐るべき存在であり、かつ信者を守る存在であると考え、そのような天使を敬ったのである。しかし、人間を超えるそのような存在よりもはるかに勝る存在がイエス・キリストであり、キリストをこそ敬い、畏れるべきであるとする。実際、旧約聖書によれば、御使いがイエス・キリストを礼拝したではないか、と論じている(6節)。御使いは霊的な存在であるが、イエスのしもべに過ぎなかった(14節)。日本人なら御使いよりは、死者の霊、あるいは先祖を崇敬するところだろう。しかし先祖に勝る崇敬すべき存在があると敷衍して考えたいところである。

また、イエス・キリストの様々な奇跡や教えを見聞きした人の中には、イエスを御使いのような超自然的な存在であると考える人たちもいただろう。そのような人々に、この手紙の著者は言う。御子イエスは、御使いよりも勝る存在である、と。この世には、本当に恐れるべき、敬うべき唯一の超自然的な存在があるという。私たちが恐れるべき超自然的な存在は唯一イエス・キリストである。そしてそのキリストが、神について私たちの知を満たし、私たちの信仰を導く伝達者となられたのである。キリストにこそ耳を傾けていきたい。

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