創世記3章

 フローレンス・ビヤバウトという聖書学者が、創世記について、簡単な概説書(『初めに神が』)を書いている。2時間もあれば読める小本であり、創世記の概略を要領よく押さえている。さて、そのビヤバウトは、三章を指して、「聖書全体の中でも最も重要な章の一つ」であると語った。それは、この章を学ぶことで、人間がどのように神との霊的な関係を失い、神を認めることができなくなってしまったのか、今日あるように神の存在を不確実として生きる結果となってしまったのかを知ることができるからである。つまり、パウロが言う「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」(ローマ5:12)という人間の罪の起源を記録している。
そもそもの始まりは、蛇の誘惑にあった。ビヤバウトは、創世記の概説書の中で、この蛇が、自分でやってきたのではなく、その背後にさらに悪い者(ヨハネ8:44、黙示12:9)がいたことを示唆している。つまり「サタン」、あるいは「悪魔」とも言われる存在で、神から人間を引き離そうとする存在である。実際悪魔は、最初の人エバに、神のみことばを疑わせようとした。悪魔は蛇を通して語った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」神への信頼関係を失わせること。これが悪魔の人間に対する唯一の目的である。そのためだったら、営業マンのように、悪魔はどんなリップサービスでもする。しかし、営業マンの言葉に乗せられるのは、心に隙があるからこそでもある。営業マンが狙うのは、世間知らずで、煽てに乗りやすく、劣等感があって、うまい話を待っているような人であろう。ただ人間は、誰しもが、置かれた状況によっては、そんな隙だらけの人間になってしまうことがある。エバも同じで、エバも、心の隙に付け込まれたのであった。つまり、エバは、神のことばを、命令の部分で誇張し、罰の部分で緩やかに語って、自ら悪魔の誘いに関心を示している(3:3)。エバは、神の命令を軽んじた。その心の隙に、悪魔は働いた。悪魔は隙を狙う者。悪魔は隙につけ込んで神と人間を引き離そうとする者である。
ところで、この事件が何の不足もない楽園で生じた所に、人間の罪の問題の深刻さが理解される。創造の初め人間は苦痛も悲哀も知らぬ楽園にあった。人間は実にパーフェクトな環境で、神に与えられた人生を楽しんでいた。ところが、人間は、まさにその楽園で罪を犯し、神の呪いを受けて、追放されたのである。貧しさが人間をだめにしたわけではない。豊かさが人間の心に隙を与えてしまったのだ。
 賀川豊彦という昭和の社会運動家がいる。賀川は、戦後の社会改革に実に多大な貢献をし、労働者の生活改善にも尽力したことは、労働運動史の中にも描かれている。だが、そこで賀川は、非常に楽観的な発言もしている。つまり、人が悪いことをするのは、環境が悪いからだ。環境をよくしてやれば、人はいい人間になる。確かに、そうした信念が、敗戦後の日本の状況を変えて、世の中を住み易い、善良な人間の溢れる町にしようという、とてつもなく精力的な活動の源泉となったのであろう。しかし、時代は変わり、賀川豊彦の名も忘れられてしまうほどになってしまったが、現代の世は賀川が期待するようなものではない。社会は相変わらずひったくりや、風俗、殺人などで混迷している。確かに、昔のように、食料不足や、病気になったら保証がないという時代ではなくなったが、社会はよくなったわけではない。つまり、環境は変わったが人間は相も変わらないのである。
 自分の欲に惹かれ、おびき寄せられて、誘惑される人間の精神構造は昔も今も、そして敢えていえば、エバの時代から、少しも「進化」していない。だから、エデンの園を追い出されたのは、アダムとエバであるが、同時に、私であり、あなたである、と言える。人類が今日呪われた状況になったのは、最初の人アダムとエバのせいであるが、最初の人アダムとエバが特別だったわけではない。仮にこの私が最初の人間であったとしても同じ結果になったことだろう。つまり、全ての人が、同じ罪の性質を持っている。罪は、人間関係を破壊し、霊的にも身体的にも痛みと混乱をもたらした。私たちが、社会や自然の様々な混乱や苦渋の中で、苦しんでいるとしたら、それは、アダムやエバがそうであったように、私たちが神を認めず、神を信じ畏れず、神に背を向ける結果である。そのように絶対的な存在を認めないところに結局、自分よりも下位の被造物に(エバの場合)、導くべきものが導かれる者に耳を傾けさせる(アダムの場合)、奇妙な逆転が起こっていく。
しかし、永遠に変わることのない神は、そんな私たちの愚かさをあざけり、放置される方ではない。失敗によって、見捨てるのがこの世の常であるとしたら、失敗に際して、新たな出発を呼び掛けられるのが神の常である。聖書は、神が園を歩き回られて人間を探されたと語っている。実に、家を飛び出し、大失敗をし、今更家に帰れぬと、放浪する子どもを、歩き回って探し出し、家に連れ帰る親の姿になぞられて、神は描かれている。神は、私たちにも同じようにされている。また、神は、アダムとその妻の罪の結果を覆われるために、一匹の獣のいのちを犠牲にした(21節)。同じように、私たちの罪が覆われ、義の衣が帰せられるために、キリストの尊い十字架の犠牲がある。創世記は新約的な視点に立つ時にこそ、万物の初めであり、かつ、黙示録に通じる先があるものとして読めるのである。

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