伝道者の書

伝道者の書1章 人生は無意味だ

おはようございます。今日から伝道者の書に入ります。一日一章読み進めると、どうも切れの悪いところがあるものです。しかし、最近の私は何も矛盾を即座に解決しようとしなくてもよいのではないか、小脇に抱えながら、思索を続けていく時の大切さがあるようにも思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.伝道者の書について

書名は、ヘブル語聖書の冒頭のことば、ディベレイ・コヘレト(伝道者の言葉)から来ている。伝統的にはソロモンの作と言われてきた。しかし、宗教改革者ルターがソロモン著作説を否定して以来、それは疑わしいとされている。実際12節。「イスラエルの王であった」はハイティ、完了形の動詞で、すでにこの時点では王ではなくなっていることを意味している。となれば終生王であったソロモンとは異なるし、ダビデの子という表現も、ダビデの子孫と理解することも可能であるから、ソロモンとは必ずしも言えない。著者は不明であり、著作年代も捕囚期以降という説もある。

2.全く無意味な世界と人生

さて、2節、「空の空」、伝道者は全く無意味だ、と言う。3節「日の下」、つまりこの世の人生には何の益もない、とする。「益」は、ヘブル語でイツローン、会計上の剰余金を意味する。つまり、この世での労苦には、投資に見合った見返りがない、ということだ。なぜ、そう言えるのか。伝道者は自然と人生、それぞれ三つの例をあげて説明する(4-11節)。つまり、太陽、風、川、それらの自然現象に注目するならば、それらは、単調な、延々とした繰り返しで、そこに何の生産性があるわけでもなく、積み重ねもない(5⁻7節)。人生について言えば、人間のことばも同様で、川が海を満たさないように、決して、人を満たすものとはならない(8節)。実際、人の人生に新しいものは何もなく、すべては過去にあったものの繰り返しである(9-10節)。人間は忘れやすいから新しいと思うだけなのだ(11節)。確かに、死後のいのちを取り上げない伝道者の論理は、実に、人生の虚しさを的確に言い当てている。

3.伝道者の試み

だが伝道者は、そうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見出そうとした自分の証を語り始める(13節)。そして1章では二つの格言をとりあげながら、自分の結論を一つ一つ述べていく。第一に、「曲がったものはまっすぐにはできない、ないものは数えられない」(15節)ということだ。物事は、あるようにあるのであって、人間がそこに何か手を加え、変化を与えられるようなものではない。成功の秘訣?そんなものはない、というわけだ。そして第二に「知恵が増せば悩みも増す、知識が増せば痛みも増す」(18節)と言う。先の箴言では、愚かにならず、賢い人生を生きるようにという勧めであったが、伝道者の書はその逆である。知恵を大事にする生き方に、何のメリットがあるだろうか。悩みも痛みも増すだけなのだから、と言う。さて初日からいきなり、悲観主義的で重々しいが、少し、伝道者の思考にお付き合いしながら、読み進めていくことにしよう(つづく)。