ガラテヤ人への手紙6章

ガラテヤ人への手紙6章 御霊の自由に生きる
1.自分自身の救いを達成せよ(6:1-5)
パウロの頭の中では、議論を一つ終えた感があったのでしょう。1節「兄弟たち、もしだれかが、何かの過ちに陥っていることが分かったなら」と、話題を転じています。しかし、「御霊の人であるあなたがたは」と続いているものがあります。つまり、キリスト者というのは、御霊に生きる者であるという考え方がありますね。私なりに言い換えると、それは、神との生きた関係に生きるということなのですが、そのような人の人生は実を結ぶ人生である、神に対して、他人に対して、自分に対して様々な実を結ぶというお話を昨日はいたしました。その中で、人に対する実として、寛容、親切、善意がある、と。であれば、やはり誰かが過ちを犯したとすれば、優しく、謙遜な態度で、その人と向かい合うということにもなるのではないでしょうか。だいたい、人というものは、人が間違っていると思えば、たかぴしゃな態度に出て、忍耐を持って語り合うと言うことはなくなるものでしょう。人が異端的な考え方を持っているとなれば、その人を散々けなして、締め出して終わり、というものではないでしょうか。そして多くの人は、十字架愛を語るキリスト教も随分不寛容なものだ、と矛盾を感じながらも、宗教に所属している、ということがあるのではないでしょうか。しかし、そのような、具体的な身近な問題に、目をつむりながら、大衆に向けていいことだけ語っている宗教って何でしょう。実に偽善的と言わなくてはなりません。やはり、和解する努力、痛みを負いながら、歩み寄る努力をするからこそ、ホントらしいものがあるように思います。そしてパウロは、何でもかんでも腹を割って話せばなんとかなる、と単純に考えないからこそ、現実的に4節、自分自身に心を集中させるように語るのではないでしょうか。他人ではなく、自分のあり方を問うのがまさにキリスト教信仰です。自分がいかにできていない人間であるとわかればこそ、人にも寛容となり、誠実な対話を続ける気にもなるものでしょう。
2.失望せずに祝福を待つ(6:6-10)
 続いてパウロは、教職者に対する配慮を語ります。み言葉を教えてくれる人がいるなら、その人にはちゃんと謝礼を支払うべきである、と。神に仕える働き人の生活のために、心を配る美しいお話はないわけではありませんが、往々にして、聖書を語ってもらったことについての謝礼については全く無関心、それはただでよいのだ、という考え方すらあるものです。そして聖書を教える先生と呼ばれる人が、副業をしながら、その生活を自ら支えている現実というものは、日本のキリスト教会の中には多いものでしょう。ここにも十字架愛を語るキリスト教会の矛盾というものがあるのではないでしょうか。やはり御霊に生きる、神の支配の中に生きるという人は、人の生活やあり様にも目を開かれる人です。この人の人生にはこんな必要があったのか、こんな苦労があったのか、とわかるようになるものです。パウロは、そのような意味で、自分の欲望を満たすようなお金の使い方には、ある程度見切りをつけて、ちゃんと正しい使い方をしなさい。必要のあるところへ回すという心を持ちなさい。そうやって、機会を見つけて善を行う、ことに信仰の身内の者に対する必要に気を配るなら、それなりの神様からの報いもあるものですよ、と。
3.最後のことば(6:11-18)
 最後にパウロは言います。人を誘って集めて、誇っているような宣教は止めなさいと。大事なのは、一人一人が本当に別の新しい人に作り替えられているかどうか、神のいのちに生きているかどうかである、と。それこそ大切にされなければいけないものだ、と。そしてパウロは自分の体に受けた割礼とは別の傷、つまり鞭打ちの傷について語ります。それこそキリストの奴隷であることのしるしである。つまり、ユダヤ人が割礼を受けるとしたら旧約聖書に教えられているように心の割礼こそ大事にしなくてはなりません。鞭打ちの傷は、パウロがキリストと共に生きたことの証なのです。大事なことは、神と共に生きているという現実なのです。では、今日もよき一日となるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「割礼は、イスラエルのみならず、古代中東の世界の他の民族の間でも広く行われたものです。しかし他の民族と異なり、イスラエル人の割礼で強調されたのはどのようなことだったでしょうか? 」答えは、心の割礼です。イスラエルでは、神との契約を真実に守る「心の割礼」が求められたのです(レビ26:41、申命10:16、30:6)。では、今日の聖書クイズを一つ。旧約聖書にある神の戒め、いわゆる律法が持つ役割として間違っているものはどれでしょうか?①罪の何であるかを明らかにする。②神の恵みの必要性を指し示す。③それを行うなら人は救われる。答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。