ユダの手紙

●ユダの手紙
1.信仰の問題を見極める(1:1-17)
教会には、信仰を伝える努力と同時に、信仰の純粋さを守る努力が必要です。つまり指導者は、これは正しいこと、これは間違っていること、とはっきり語ることもあるわけです。ただ、日本人は、和を重んじますから、どんな信仰でもよいじゃないか、物事を信じることは大切なことだよ、と考え、これが正しい信仰などという言い方は、批判や悪口にしか聞こえないこともあるものでしょう。けれども、信仰というのは、心のあり様というよりは、何を信じるか、つまり信仰の対象を明確にするところがあるのです。漠然と何かを信じていればよいというのではなく、これこれのものを私は信じる、というポジションを定めるものなのです。ですから、これは違うし、本当は、こうというのは、どうしてもあるものでしょう。 
ユダがこの手紙を書き送った教会も、そのような意味で、その信仰を正されなくてはなりませんでした。彼らは、4節にあるように、密かに忍び込んできた偽教師の影響を受けていました。どういう問題があったのか、「神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している」と言います。まず、キリスト教は恵みの宗教、赦しの宗教です。イエスが私たちの身代わりとなって、十字架で死んでくださったことにより、私たちの罪は赦され、神に愛される者となった。私たちは救われた。そこで救われたなら後はどうでもよい人生を歩んでもよいとはなりません。救われた者は、救われた者らしく新しい人生を生きる、これが正しい考え方ですが、偽教師はそうではなかったわけです。恵みを放縦と取り違えている、古い人生の延長をよしとするかのようなことを教えたというわけです。そのようにして彼らはイエスの十字架での尊い命の犠牲を踏みにじりました。結局、イエスを十字架にある罪の赦しを無駄にする者たち、イエスが救い主であることを否定する者たちだったのです。神はこのような指導者を放っておかれることはありません。必ず裁きを付けられる、と言います。
2.信仰の純粋性を保つ(1:18-25)
そしてユダは、そのようにおかしげな信仰が蔓延る問題が、教会には起こりうることを指摘した後で、どのように、純粋な信仰を保っていったらよいのか語ります。
第一に、そのような、不敬虔な欲望のままに振舞う、間違った信仰というのは、当然起こりうるのだ、と心得ようと言います(17-19節)。キリスト者と言えども、その中身は色々です。口先ばっかりで、どうもおかし気な信仰者だなと思わされる人というのはいるものです。ちゃんと識別の目を働かせて、本物の信仰に生きている人というものを見分けなさいと言います。
そして第二に自分の信仰をしっかり育てることです(20,21)。信仰をもって終わりではありません。信仰は磨きに磨きをかけるべきものでしょう。他人と比べてどれほど立派に生きているか、というのではなく、1年前の自分と比べて、今どれほど信仰が進んだかです。
第三に、自分のことだけではない、他人のことも考えられるようになることです(22、23)。信仰的になかなか成長しきれないで悩んでいる人々の助けとなることです。自分のことを棚に上げて、人におせっかいを出すというのではなくて、本当に、自然な、必要な助けが出来るようになるというのは、信仰の成長のしるしというべきですね。大事なことは、信仰の精進というのは、私たちの努力だけによるものではない、ということです。神のあわれみ、神の恵みによるものです。神は、私たちが何度失敗しても、逸脱しても、見捨てず見放さないお方ですが、その恵みの機会を放縦とせず、信仰を成長させる機会、品性を向上させる機会とすることです。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヨハネは愛を大事にし、愛を語る人のようですが、本当は、どのようなあだ名で呼ばれていたでしょうか?」答えはボアネルゲ(雷の子)でした。ヨハネは短気で怒りやすい人でしたが、愛を語り、愛を大事にし、愛に生きる人に変えられたのです。では、今日の聖書クイズを一つ。ユダの手紙で、聖書以外の書物からの引用があると言われているのは、どの箇所でしょうか?2か所あります。答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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