1ヨハネの手紙5章 神の証言を受け入れて生きる
1.神の愛に生きる(5:1-5)
人を愛するという視点から、全てを考えていく、これがヨハネの言いたいことのようですね。そしてその根底に、神を愛している、いやまず神が私たちを愛してくださったという事実によって、私たちも神を愛している、という神との関係があるのです。そして人を愛している。1節。「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します」
こうしてキリスト者の愛の実践のベースに、キリスト者と神との深い絆があるというわけです。ルカの福音書15章には、神の愛のたとえ、通称放蕩息子のたとえと呼ばれているものがあります。ある金持ちの次男が、生前贈与を求めて、財産を得て、遠い国でそれを湯水のように使い果たし、ボロボロになって家に戻ってきたお話です。父親は、彼を可哀そうに思い、自分の息子だからと全てを赦し、受け入れるのですが、長男は感情的に父親のすることが受け入れられないのです。確かにそうですね。虫が良すぎると思います。けれども、親の愛というのは不合理なものです。理屈抜きに、神は人を愛されているのです。ですから神に例えられた父親は、冷ややかに受け入れようとしない長男に言うのです。私のものは皆あなたのものだ、あなたも私と同じ心になって受け入れるべきではないか、と。これがキリスト者の愛の実践のベースです。神に愛され、豊かに与えられているという原点に立って、神と同じ心をもって、敵と思えるような人も愛していく、それがキリスト者です。神の愛に祝されている現実がよくわかれば、神の命令を守ることは重荷とはなりません。世の中のある人々のように、狭い心で生きることもないのです。
2.キリストの証を信じる(5:6-21)
ヨハネは、そこでキリスト者がどんな祝福にあるかを再び協調していいます。神の子、キリストを信じる者は、キリストのいのちを持っている。キリストの喜び、望み、力を共有しているのだと。それは、御霊と水と血によって証言されていることだ、と。水というのは、バプテスマのことでしょう。信仰を持った時に、授けられたバプテスマ。その経験が、キリストのいのちを持っていることの証言だ、と。また血は、イエスの十字架上で流された血。つまり歴史的に証言されたことである。さらに、御霊、目には見えませんけれども、聖霊なる神が、私たちに内的な確信を与えてくれるのだ、と。内的な確信というのは、主観的なものです。人によって物事の感じ方は違うものでしょう。キリストのいのちを私は得ていると、強烈な感覚をもって感じる人もいれば、そうでない人もいるはずです。16世紀、宗教改革時代以来のプロテスタント信仰の確信は、御霊は神のことばとともに働くです。つまり聖書のことばとともに、聖霊は、私たちの心の内に語り掛ける。御霊が単体で直接、耳に語り掛けるという神秘的なことは考えません。ですから、聖書を読みながら、確かにそうだな、確かに私には神の永遠のいのちが与えられているのだな、と静かに感じる内的確信もあることでしょう。ともあれ、御霊と水と血が、私たちに永遠のいのちの祝福、神との親しき関係があることを証ししているのです。
となれば、もし、何かが私たちの内に不足し、必要があるとしたら、素直に神にこれを語るべきでしょう。14節、神のみこころに従って願うなら、神は聞いてくださる、これは私たちの確信だと言います。そうです、何事も自然に、力を抜いて生きてまいりましょう。そしてもし、不足があるなら、自分の我欲に基づくものでない限り、素直に神に願うべきなのです。16節、ことに、魂の救いについてはそうでしょう。人を愛するということにおいて、不足があれば、神はそれを聞いてくださることでしょう。罪を犯さない、それは、私たちが神と人を愛するということに関わる問題です。あらゆることにおいて、偽物、偶像を識別して、本筋に生きてまいりたいものですね。
<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「キリストの神性について、端的に語っている聖書箇所はどこでしょうか?答えは、ヨハネの言葉で言うなら、ヨハネ5:18「ご自分を神と等しくされた」であり、パウロの言葉で言うなら、コロサイ2:9があげられます。ヘブル1:3もよいですね。では、今日の聖書クイズを一つ。神の命令を簡単に要約すると、どのように言うことができるでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
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