ヨハネの手紙Ⅲ ガイオ
1.ガイオのような人(1:1-8)
ヨハネの手紙第三の宛先は、ガイオ、どのような人物なのか、よくわかっていません。ただヨハネが「愛するガイオ」(1節)、「愛する者よ」(2、5節)と呼んでいるところからすれば、彼は、ヨハネによって救われた人なのか、特別な関係にあったと思われます。
ともあれ、ヨハネはガイオの霊的な状態については、安心を表明していますが(4節)、体の健康について気遣っていますね。どうやら、この時彼は、体の調子を崩していたのでしょう。ヨハネはガイオの健康の回復を祈っています(2節)。
さてヨハネは、先の第二の手紙では、「選ばれた婦人」に偽りの教師をもてなしてはいけないと警告を与えています。しかし、ここでは、まことの牧会者、巡回伝道者をもてなすように励ましています。ガイオは、どうやら、彼らに自分の家庭を解放しただけではなく、お金や食べ物を提供したり、衣服を繕ったり、洗ったりして、巡回伝道者の旅を支援したようですね。ガイオは、信徒の立場で、熱心に主の働き人を支えた人のようです。彼は神のことばに忠実で、宣教が進むように、自分の持てるものを分かち合う人々でした。そのようにして、ヨハネや多くの巡回伝道者の同労者となった人です。
2.ディオテレペスのような人(1:9-11)
しかし、残念なことに、教会の皆がガイオのような人ばかりではないのです。9節、ディオテレペスのような人もいるのです。彼は、古参の信徒であったのかもしれませんね。自分は先輩であり、様々なことを誰よりもよく知っていると、なんとなく人の上に立とうとする人であった。そして、その傲慢さの故に、教会では、多くの人が不快な思いをし、傷ついている状況があった、ということです。10節「意地悪なことばで私たちをののしっています」というのは、「間違ったむなしい訴えを起こす」という意味です。彼は、指導者に対して、あれこれ批判を向けますが、その批判は実に空しい、ただ人の時間を無駄にし、皆に不快な思いを残すだけなのです。問題は、そのようなむなしい訴えを、真に受ける人々もいた、ということです。日本人は、声のでかい人に引きずられると言います。誰かが強い調子で、声をでかくして言えば、そのことに引きずられてしまう、そして正しいことが行われなくなってしまう、と言うのです。確かにそんな国民性を持っているかもしれませんね。ディオテレペスは、ヨハネを拒否し、ヨハネと交わる人々を拒絶しました。彼は受け入れるべき人、退けるべき人の判断に狂いのある人でした。そのような人が教会の指導的な立場に立つと、やはり教会は混乱します。教会がどのような指導者を立てていくかは、本当に重要なことですね。そして、ヨハネは、ディオテレペスのようになってはいけない、確かな判断力を持ちなさい、と勧めるのです。そして、むしろデメテリオの用でありなさい、と言います。デメテリオは、おそらくガイオと同様、真理の内を歩み、神のことばに従う人だったのでしょう。
教会に必要とされているのは、より多くのガイオやデメテリオのような人、そしてより少ないディオテレペスのような人です。霊的に健康で、確かな識別力を持ち、正しいことをしっかり行う人々です。教会の発展はまさにそのような人にかかっていると言えるでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。
<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ヨハネは、キリストを認めない者を「反キリスト」と言いましたが、パウロは、これをどのようなことばで表現しているでしょうか?」答えは「不法の者」でした(2テサロニケ2:3)聖書で色々と言い換えられていることを、整理すると、さらに聖書理解が進むでしょう。では、今日の聖書クイズを一つ。ヨハネは愛を大事にし、愛を語る人のようですが、本当は、どのようなあだ名で呼ばれていたでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
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