ヨハネの手紙第二

2ヨハネの手紙 霊性の深さ
1.業界内の挨拶(1:1-3)
この手紙は、ある「長老」から書き送られました。伝統的にこの長老は、使われている用語や文体の特徴から、使徒ヨハネと考えられてきました。また、「選ばれた婦人とその子どもたち」については、文字通りそのような婦人や子どもがいたのだ、とする説と象徴的に教会である、とする説があり、結論は出ていません。ただ私は、婦人は教会の女執事、代表者で、子どもたちはその教会の信徒たちではないか、と思うところがあります。
冒頭から、ヨハネは、この教会を本当に愛している、と語ります。「本当に」は、「感情的に」というよりは、「真理によって」つまりキリストの十字架愛に基づいて愛している、というものでしょう。ですから、「真理を知っている人々」(1節)、つまり他教会の人々も、皆、あなたがたを愛している、と言うのです。ですから、1-3節は完全に業界内の挨拶なのですが、それでも、そこには同じ十字架愛に立つ者の確認と、励ましに満ちた挨拶がある、と言うべきでしょう。
2.互いに愛すること(1:5-6)
そこで最初にヨハネは、互いに愛することを命じています(5節)。ヨハネの手紙第一の基本的な教えの繰り返しですね。新しい命令ではなく、基本的な命令である。イエスが十字架上で身を持って教えてくださった、その愛に生きる、これが教会の本質である、と言うわけです。それまで人は、人に寛容であること、親切であることは十分教えられていたことでしょう。日本の学校教育でも道徳の時間があって、いじめはだめであること、自分よりも立場の弱い人や、社会的援護が必要な人には優しくすべきことを教えられているはずです。しかし、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、と語られる神の愛はどれほど教えられているでしょうか。実際、この犠牲的な、親の愛にも例えられる愛だけが、冷え切って破壊された人間関係、かきまわされてどうにも手のつけられなくなった人間関係を立て直すことができるのではないでしょうか。そして教会こそが、この神の十字架愛を教えられる大切な場と言えるでしょう。そのような意味で、日本の社会にキリスト教会があるということは希望です。親の愛も、完全ではないことがありますが、例えて言えば親の愛にも似た神の愛、与え尽くし、人を建て直していく忍耐強い愛は、キリスト教会でこそ語られ、教えられるのです。教会は、本当に人間社会において大切な価値を語っているのですから、信者を獲得する宣教目的というよりも、当たり前のことを当たり前に語る必要があるのではないでしょうか。それを他人が伝道だと言おうが言うまいが、まず、人間にとって本質的に大事なことをしっかり語るようでありたいものです。
3.教会を教会としていく(1:7-13)
教会は、キリストの教えを語る場、そしてキリストの教えの中心は十字架愛、このことを語らぬ者、この教えを大事にしない者は、皆惑わす者、反キリストであり、そのような人を受け入れてはいけない、と言います。やはり教会を教会としていくこと、ただいい話をするような教師は、受け付けないことです。そういうお話は、教会の外でももっと上手に語る人はいるものでしょう。教会ではキリストが中心、キリストが十字架上で身を持って示した、十字架愛を語るのです。教会を建てあげるには、ある種の霊性の深さが必要です。本質を見抜く力が必要です。牧師のみならず中核になる信徒は、やはり、大事にすべきものを大事する、霊的な識別力が必要なのです。結局、教会の力は、教会に集う一人一人の、キリストの十字架を大事にする思いが大事というべきでしょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「神の命令を簡単に要約すると、どのように言うことができるでしょうか?答えは、神を愛し、人を愛することです。イエスは、律法の戒めは、その二つの要点に集約されると教えられました(マタイ22:36-40)では、今日の聖書クイズを一つ。ヨハネは、キリストを認めない者を「反キリスト」と言いましたが、パウロは、これをどのようなことばで表現しているでしょうか?答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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