マルコの福音書16章

マルコの福音書16章 イエスの復活と教会の前進
1.イエスの復活(16:1-8)
1節「安息日が終わったので、マリヤとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」とあります。それは葬りのための香料で、女性たちは、安息日前に慌ただしく葬られたイエスを、しっかり葬り直そうとやって来たと言うわけです。彼女たちの頭に、イエスがよみがえるということばは全くなかったのでしょう。あれほど、イエスと親しく時を過ごし、イエスの教えを3年間みっちり受けながら、イエスが語られたことをよく理解していなかったのです。14節、復活のイエスがその「不信仰と頑なな心をお責めになった」と言いますが、それは、私たちも同じと言わねばなりません。
どうでしょう。イエスを神と信じている、というのは口先のことで、心の中はいつも不安と無力感で一杯という現実があったりします。信仰者の名札は下げていても、中身はそうではないのです。しかしそれを不信仰というのです。イエスに、なぜ私の語ったことを信じないのか、と問われる部分なのです。イエスの十字架により私たちのすべての罪は赦された、私の救いに必要なことはすべてイエスが成し遂げてくださったと信じること、そしてイエスが復活されたことにより、その復活のいのちが、私の人生にも働くのだ、としっかり信じたいものです。大切なのは、信じようと頑張ることではありません。信じる以外に道はない、という神に差し出された恵みの手を掴む遜りの心で信じることです。
2.マルコの終わり方(16:9-20)
さて、マルコの福音書の終わり方は、実に不自然です。新改訳2017では、アスタリスクで始まり括弧つきで終わる文章が二つあります。つまり、マルコの福音書は、ギリシャ語の写本では、合計四つの終わり方があるということです。一つは、唐突に8節で終わる写本。二つ目に、8節からアスタリスク付きの短い追加文で終わるもの。三つ目に、8節以降9節から20節の長めの追加文に続いて終わるもの。最後に今日の私たちには伝えられてることのなかった未知の終わり方をするものです。
どの終わり方が、マルコの自筆なのか、専門家は様々な議論をしてきました。結論的に言えば、これらはマルコの手によるものではなく、誰かが8節で破損して伝えられたかもしれない写本に付け加えたもの、とされています。つまり、マルコの自筆は8節までで、短い追加文は、不自然に終わる末尾を完結するために整えたもの、長めの追加文は、マグダラのマリヤの物語(9-11、ヨハネ20:1-8)、エマオの途上の物語(12-13、ルカ24:13-35)、大宣教命令(14-15、マタイ28:18-20)と他の福音書の最後の部分をなぞって書き加えられたもの、と考えられています。となれば、この箇所から何かを語ることは慎重にというところでしょう。ことに、議論のあるところは、18節「たとい毒を飲んでも」というくだりです。信じる者は毒を飲んでも害を受けない、これが神の霊感を受けたことばとして語るのはいささか難しいのではないか、ということです。しかし、大方その内容はマルコの意図を汲んだしめくくりと考えられます。そして20節、これは他の福音書にはないもので、初代教会の宣教盛んな勢いを感じるところです。宣教は復活の主とともに前進するものです。人類は皆、キリストの十字架により「救われる」ではなく「救われている」のです。ここに大いなる喜びがあります。では今日も良き一日となるように祈ります。