申命記34章 モーセの死と結語
1.モーセの死(1-7節)
モーセの最後の務めは、主に命じられてピスガの頂に登ることでした。それは、死海の北端、ヨルダン川東側19キロにあるネボ山とほぼ同じ地点にあり、標高700メートルほどの頂でした。そこからは、死海が眼下に横たわり、荒野を見下ろすことができました。そこで主は彼に約束の地を見せたのです。まず「ギルアデをダンまで」。それは、ピスガの頂からはるか北に目を向けることでした。次に「ナフタリの全土、エフライムとマナセの地」北から、西側へ視線を移しています。そして「ユダの全土を西の海まで」つまり、北側から始まり、西側、そして南西側へと視線を動かし、約束の地全土を眺望した、ということでしょう。しかしながら、実際には、パレスチナ山脈が邪魔をして、西側の海全体を見通すことは難しかった、とされています。ですから、ここは実際に肉眼で見たというよりは、信仰によって見た、ということです。
ともあれその地は、主なる神が、アブラハム、イサク、ヤコブに対して「あなたの子孫に与えよう」と誓われた地です。となれば、地理的な広がりのみならず、歴史的な流れの中から、モーセはその地を眺めたと言うべきです。つまりモーセは、神がもっておられる、イスラエル民族に対する壮大な計画を思い巡らしながら、その地を眺めたのです。実に、占領すべき土地というよりも、アブラハムの時代から面々と続く、神の深いご計画、そのご計画に与る小さな塵のような人間、モーセはそんなことを考えさせられたのではないでしょうか。
モーセが死んだ時は120歳でしたが「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とされます。しかし、その肉体は確実に衰えていました。モーセは「もう出入りができない」(31:2)と足腰が弱くなったことを認めています。人は老い、いずれ体が思うように動かなくなる時を迎えます。しかし、若い時には、いや、70、80歳になって、いささか体の動きに不自由さを感じ始めても、自分の体が動かなくなるなど考えもしないのが人です。頭ははっきりしていても、体の機能が停止していく。人間の齢には限度が設けられています。つまり人は、神の任務を背負い、その働きを遂行し続けながらも、確実に老い、退く時を迎えるのです。神は人それぞれに任務完了の時を与えておられます。
大切なのは、その時「主は彼を葬られた」とあるように、モーセを主が葬ってくださったことです。主ご自身が任務完了を遂げたモーセの労をねぎらい、葬ってくださったのです。確かに、神のみこころに生きる事に徹するならば、神が私たちを葬ってくださることは、当然のこと。そして神は天にも迎えてくださるはずです。
こうして死に際して重要なのは、葬儀が荘重に行われ、この地に何かの足跡を残すよりも、確実に神の御手によって葬られ、神に迎えられることです。「身体は土に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」とあるように、最後には、神に葬られ、迎えられるような人生を生きていくことが求められているのでしょう。
2.イスラエルの前進
モーセは神の召しに忠実に生きました。彼は、エジプトを懐かしみ、過去に戻ろうとするイスラエルの民を前進させ続けました。約束の地にまでモーセは同行できませんでしたが、いつでもモーセはイスラエルの民に約束の地を指さし、そこに向かわせました。神に立てられた指導者の任務は、民に前進を促すことです。それはイエスの働きを象徴するものです。神はイエスを通して、私たちを出エジプトに等しい罪からの解放を成し遂げてくださいました。そしてさらに、この世において旅人、天の御国に戻ることを促し、神の国と義を第一に求めるように教えられました。罪人の人生から、神の恵みの中に生きる人生へと、イエスも前進を促し続けておられます。
8節、「モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わり」新しい指導者ヌンの子ヨシュアが立てられました。「イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられた通りに行った」(9節)と言います。神の民は、新しい指導者に導かれて新しい歴史のページを開いて行きます。どのように死を飾るかではなく、どのように死後の歩みを次の世代に示し、備えていくか、使命の完了をしっかり遂げるものでありたいところです。
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<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。エシュルンという単語は、旧約聖書に4回しか出てきませんが、申命記の3回(32:15、③3:5、26)と他にどこに出てくるでしょうか?答えは、イザヤ書44:2です。「 あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける【主】はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」と出てきます。では、今日の聖書クイズを一つ、ピスガは、ネボ山の頂上である。〇でしょうか、×でしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。
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