9章 耕す者が刈る者に追いつく
おはようございます。アモスを読み終わります。裁きを語ると同時に、回復を語るアモスのことばに、よくよく耳を傾け、信仰的な一歩を踏み出したいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神ののろい
9章の前半は、これまでの裁き(7-8章)を宣告する幻の中で最も恐るべきものです。アモスは「祭壇の傍らに主が立っておられる」のを見ています。裁き主が姿を現されたのです。その主が、「柱頭を打ちたたき、敷居が震えるようにせよ」と言います。つまり地震によって神殿が破壊され、偶像崇拝者が滅ぼされることを言っているのでしょう。かつてクーデターを起こしたエフーは、80人の衛兵を配備して、異教の神バアルの預言者と礼拝者とを、神殿の中で殺害しました(2列王10:25)。その時、外に逃げる者、逃れる者は一人もいませんでした。同様に主は、ご自身自ら、バアルの礼拝者となったイスラエルの礼拝者たちにそのようにされることを宣告するのです。
そして神の裁きを止められるものもなく(2-4節)、ダビデが詠ったように、神は遍在するので(詩篇139篇)、神の手から逃れられる者もいないのです。なんとも恐ろしい宣告です。そもそも、どうしてこうなってしまったのか。神は、イスラエルの罪を指摘します。「あなたがたは、わたしにとって、クシュ人と同じではないか」(7節)。イスラエルは、契約の民であったはずなのに、もはや呪われたハムの子孫、クシュ人と変わらないというのです(創世記9:22、10:6)。
2.神の回復
しかし、神はあわれみを捨て去っているわけではありません。神の目は「罪深い王国」に向けられながら、そこに悔い改めの実を探しておられるのです。「ヤコブの家を、根絶やしにすることはない」(8節)「イスラエルの家をふるいにかける。ふるっても、小石は地に落ちないようにする」(9節)。つまり裁きの日に、神は、塵と小石を区別されるのです。それは、イエスが語られた、良い麦と毒麦の選別(マタイ13:24-30)、羊とヤギの選別(25:31-46)を思い浮かべさせる預言です。
つまり、11節以降の神の約束は、終末的に理解すべきことなのでしょう。ここで神はダビデ王国の回復(11-12節)とその国の繁栄を語っています(13-15節)。イザヤ、エゼキエル、ホセア、ヨエル、皆そうですが、旧約の預言者たちは、繰り返し裁きを語ると同時に、その回復を語っています。それが神の望んでいることだからです。しかもそれは、歴史的な捕囚帰還と過去のイスラエル王国の栄光の再興を預言するに終わらない、終末的な新しい永遠の御国の完成を語るものです。そして新約聖書において、ヤコブによっても引用され、確認されたビジョンです(使徒15:16-17)。今日のように世が混とんしていく時に、私たちはいつでもこの聖書が示す基本的ビジョンに目を向け続けなくてはなりません。私たちが向かっているのは、滅びではなく「耕す者が刈る者に追いつく(13節)」エンドレスな豊かさであり祝福なのです。その確信から今日の一日をスタートすることとしましょう。