エゼキエル書48章

48章 契約に忠実な神

おはようございます。神がどのような方であるかを知ることは、人生において決定的なことです。エゼキエル書を通して、神の考えやご性質をしっかり読み取りたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.命の水の川

エゼキエル書を読み終わりました。最終章は、47章に続く、土地の分割について語っています。聖地を挟んで、北と南にそれぞれ12部族に土地が分けられるのです。北から始まり南へと、ダン、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム、ルベンと六部族に土地が割り当てられます(1-7節)。

もはや捕囚となって25年が経ていたと思われます。そのような状況で語られるこのメッセージに、当時の読者は何を感じたでしょう。失われたものに対する思いは、強くあっても、故郷に戻り、かつてのイスラエルを再興するなど、どのようにして叶うものだろうか。しかしできれば、そうなればよい、漠然とそのように考える彼らに、実際の距離を加えながら細かくそのビジョンを語る本章は、そのようにしてくださる神がいる、ということへの信仰を引き出すものだったのではないでしょうか。

というのも、既に述べたように、イスラエルが戦争に負けたのは、イスラエルの神が弱かったからではなく、正しかったからです(39:24)。だから神は、これを嘲笑した者に復讐もし(25-32章)、かつ、裁きによって滅亡したイスラエルを回復させることもできるのでした(39:27、28節)。神は、破壊して物事を終わらせるような方ではありません。神に中途半端なやり残しはないのです。となれば、私たちが人生に失敗した、躓いたと思うような時には、それを神の裁きと素直に受け止めた方が、希望のあることです。というのも、神の裁きのもとに、悔い改めるなら、神はファイナライズ(最終処理)をなさるからです。つまり神の頭の中では、十字架と復活が常にセットであるように、裁きと回復は切り離せず、回復というプロセスを踏まずに、物事を終わらせられないのです。これが神にとってはお決まりなのです。

2.主はそこにおられる

神の再興されるイスラエルの、部族配置を眺めながら思うことは、相続地の中心に主の栄光の臨在があることでしょう。つまり、今の私たちの状況に当てはめれば、やはり主を中心とする生活秩序の確立が期待されているということです。彼らにとってこの幻は、捕囚後のイスラエル再興を語るのみならず、それがそのまま永遠に守られるべき終末的な秩序として意識されるものでした。

エゼキエル書は、町の描写で最後を飾ります。その町は、一辺4千5百キュビトの正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があります。合計12の門には、12部族の名が付けられていて、町それ自体の名は、『主はそこにおられる』(35節)でした。インマヌエル(イザヤ7:14、マタイ1:23)と同じく、契約の主が臨在される場所です。いのちの源となり、またいのちである神ご自身がともにおられる場に、私たちは永遠に住まうことになるのです。

神は、イスラエルの罪の故に、自ら神殿を去られました(10章)。しかし、神は今や再び戻って来て、ご自身の民を祝福してくださるのです(43章)。この世において、壊れた関係を築き直すことは至難の業です。しかし、神は、私たちとの関係を自ら回復される、私たちの滅びを自ら再建してくださる、と語ります。神を信じて何になる、神を信じたって何も変わらない、そのような不信仰な思いに望みはありません。しかし信仰によって神の裁きを受け入れ、神のファイナライズに期待するなら、神は動いてくださるでしょう。神を信頼しましょう。神は「そこにおられる」お方なのです。