ゼカリヤ書14章

ゼカリヤ書14章 主の日に向かう

おはようございます。終末的な救いと教会の完成が語られます。先行き不透明な時代であればこそ、救いと教会の完成に心を向けるべき時です。そこが終着点だからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の守り

エルサレムに対する神の裁きが語られます。これはすでに13章の8、9節で述べられていることの繰り返しです。しかし、神殿再建後のタイミングにこれが語られたとすれば、それから後のこと、となります。つまり昨日も書いたように、いわゆる終末的な預言として読むべきもので、エゼキエル(38-39章)や黙示録(14:17-20、16:14-21)で語られる、神の民に対する最終的な戦いに通じる内容です。となれば、町は占領され、踏みにじられる、そして捕囚の民が連れ去れるというのは、霊的な意味でのイスラエルの試練を物語っていることになります。あまり聞いても嬉しくない内容のように思われるものですが、実は神の恵みに満ちた内容でもあるのです。

というのも、第一に神がこの試練の中で、ご自身に従う者を守られることを約束しているからです。オリーブ山が神の力によって分けられ、残りの者がその谷を通って逃げる、という4節の約束は、文字通りではなく象徴的に受け止めるべきところで、神の奇跡的な介入による神の民の守りを伝えています。神は神の側に立つ者とどこまでも共にあるのです(9節)。そして神は、ご自分の民を攻める者と戦われることを約束します(12節)。注目すべき点は、その神の民を攻める者が神に下された疫病によってふるわれ、その残りの者が神の民の残りの者に合流させられる点です(16節)。「残された者」は、神の民とそうでない者を問わず、神の下に残された者、ということです。

2.救いの完成

20節、「馬の鈴」が主への聖なるささげもとされます。もともとユダヤ人にとって馬は傲慢と王の虚飾と肉性の現われで、所有することすら禁じられていました。家庭用の「鍋」も世俗的なものと考えられていました。しかし、その日、それらが皆、聖なるものとして用いられると言います。つまり聖俗の区別がなくなるということです。神によってふるわれて残された民にとって、教会は聖なる場、日常生活は世俗の場、というような二重生活はなくなるのです。宗教は生活の一部ではなく、生活そのものになるのです。ですから、その日「万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる」(21節)とも言われます。私の家は祈りの家と呼ばれると、イエスが、神殿で商売する者どもを追い出し、宮清めを行ったことが思い起こされるところです(マタイ21:12)。神の宮は完全に聖められ、神の栄光を純粋に崇め礼拝する場とされ、キリスト者の日常も同じようになるのです(ローマ12:1)。

こうしてゼカリヤは、救いと教会の完成を語っています。やがて私たちは神の前に立つことになります。それまでに神が、戦乱や疫病をもって人類をふるい分けすることもあるでしょう。世に起こる事柄は皆、それぞれ意味のあることで、それは神を認める者をますます神に近づけ、そうでないものを退けていくプロセスとなります。先行き不透明な時代であればこそ、自身の救いと教会の完成に心を向けてまいりましょう。それが終着点だからです。