ナホム書3章

3章 ニネベへの葬りの歌

おはようございます。ニネベが完全に滅ぼされるメッセージが語られます。完全懲悪の神の姿が描かれますが、ヨナ書と合わせ読むことで、さらに考察を深めたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アッシリヤの滅亡

ニネベに対する報復の様が描かれます。「むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び跳ねる戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。」(2、3節)実に、目に浮かぶようなリアルな描き方です。「おびただしい戦死者、山なす屍、死体に人はつまずく」(3節)。先に進むため、倒れている死体を踏まないようにと思っても、足を下ろせば死体を踏みつけてしまう惨状が、そこに起こる、と。

これが神の裁きというのは、あまりにも痛ましく、受け入れがたい気も知るのですが、その背景には、聖書には詳しく記録されることもない、神のことばを軽んじ、悪の限りを尽くす権力者や力ある者の存在があったと言えます。彼らはナホムの警告を聞いても「神とは何者だ、私こそ神だ、私は、自分が手にしたあらゆる人脈と力を動員して、さらに強くなってみせる」とすら考えたことでしょう(ヨブ21:15)。しかし、神は、そのような権力者の在り方に、ストップをかけるのです。「見よ。わたしはおまえを敵とする。おまえを愚弄し、おまえを見せ物にする」(5、6節)。世の権力者や、不正を行う者どもがいつまでも自分の思うままに生きながらえることはありません。正しいことをなさる神は生きておられるのです。神は言います、「おまえはテーベよりもすぐれているのか」(8節)。テーベは、百の門を持つといわれたエジプトの町で、最も古く、神殿、オベリスク、スフィンクスが立ち並び、富み栄えていた町でした。BC663年、アッシリヤはその町を滅ぼしたのですが、今度はアッシリヤが、自分のしたようにされる番となるのです。神は、アッシリヤに包囲に備え、要塞を強固にせよと命じます(14節)。これは皮肉でしょう。たとえ、兵力を増強し、防衛しようとしても、それは散っていくいなごのように霧散してしまうと言います(15-17節)。アッシリヤの知を尽くして造られた巨大な給水システムも、無に帰す、と。いかにアッシリヤが巨大な力を誇ろうとも、神の裁きの力に抗することは不可能なのです。アッシリヤは、確かに、徹底的に破壊され、その後数世紀に渡り、その所在は忘れ去られていたほどでした。

2.完全懲悪で終わらぬメッセージ

アッシリヤの滅亡に、かつてこの国に虐げられた、周辺諸国が喜びます(19節)。当時の背景が見えにくいだけに、ナホム書を読み通すと、それは勧善懲悪の神を恐れる大切さを語っている程度に受け止められてしまいがちです。しかし、もう一つ聖書の大きな文脈からすれば、100年も前にヨナがニネベに語った時には、悔い改めが起こったのに、ナホムの時にはそれがなかったことに注目すべきです。ニネベの歩みを人の歩みに例えるならば、信仰は生涯かけてのことであり、悔い改めは一度限りのことではありません。それは繰り返されるもので、信仰生活はいよいよ整えられて行かなくてはならないのです。神と心をすり合わせて生きる日々の歩みの大切さがそこにあるのです。努めて神との時を取りましょう。