ハバクク書3章

3章 主を待ち望む
おはようございます。ハバクク書は、祈りによる預言というべきものです。最終章の祈りは、礼拝用に作られた公の祈り、私たちが共に祈るべきものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.嘆きの歌
なぜ、神は裁きを行われる時に、悪しき者を用いられるのか?不思議ですが、そこに神の不正はありません。というのも、裁きに用いられた器が悪しき者となるなら、同じように裁かれるからです。神は正しいことを行われるお方です。ハバククと神の対話は2章までで、3章は、ハバククの感謝の祈りとなっています。「シグヨノテ」は、詩篇7篇の表題にも使われ、それは嘆きの詩です。実際それは、アッカド語で「嘆きの歌」を表す単語と関連しているとされ、本書それ自体に預言者の嘆きが基調となっていることを考えるなら、適切な表題と言えるのでしょう。「セラ」は、音楽上の表記で、その意味はよくわかっていませんが、このような表記を持つのは、おそらく礼拝用に整えられて作られた詩篇であったと思われます。
2.ハバククの祈り
さて、ハバククの祈りは、神のみわざに集中しています。そして、この数年のうちに「それを」という願いは、1、2章で語られたことを受けているのでしょう。神が語られたとおりに正しい裁きをなさるように、しかしそこに「あわれみを忘れないでください」と言うのです。
そして3節から、ハバククは、裁き主である神が近づいてくる様を語ります(3-6節)。「テマン」も「パラン」(3節)もエドムの地に属しますが、シナイ山の地域に触れるために用いられています(申命記33:2)。ですから4節は、シナイ山で律法が与えられた時のことを語り、5節の疫病や熱病は、おそらく荒野の40年の出来事を思い越すものでしょう。つまり、ハバククは、ここで、出エジプトのみならずカナンの地を征服する神の民の歩みを、神が助けてくださったことを思い巡らしているのです。そしてその神が、自分たちの歴史に再び介入されることを覚えています。
続いて7節から、ハバククは、実際に地に介入された神の勝利を思い起こしています。8節は、恐らく紅海とヨルダン川が神の力によって分かたれた出エジプトの出来事をイメージしています。自然界がみな、神の御手によって自由に操られていくのです。実際神は、あらゆる歴史の局面においてご自分の民のために戦ってこられました(13節)。私たちを食い尽くそうとし、ほしいままに追い散らし、荒れ狂う敵があっても、神はその敵を打ち破り、完全に葬り去ることができるお方です(14節)。
これら神の御力の素晴らしさを覚え、ハバククは現在の逆境にもかかわらず、正しき者の勝利を確信し(16節)、主への信頼を表明します(17-19節)。大切なのは、何か驚きうろたえるようなことがあっても、主を信頼して「静かに待つ」ことでしょう(16節)。そして「私の主、神は、私の力」(19節)と告白し、祈ることなのです。