マラキ書4章

マラキ書4章 モーセの律法を覚えよ

おはようございます。今日で旧約聖書を読み終わります。何事も完成は喜ばしいものです。また一つの年輪が刻まれ、知らずに、信仰的に強くされているところがあるはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.主の日

3章に続く、主の日の預言です。内容的には、3:13の、民のつぶやきに対する神の応答の続きです。神は正しいことをなさるお方、その日、「正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者」の違いがはっきりとする、と言うのです(3:18)。大切なのは、神に仕える者のイメージです。それは、「主を恐れる者、主の御名を尊ぶ者たち。」そして「主の哀れみを受けた者たち」です(3:16-17)。神に仕えない者は、逆で1節「すべて高ぶる者、すべて悪を行う者」ということになります。また、神に仕える者の結果にも注目しましょう。神を認めず、神に仕えない者には、その日は焼き尽くす巨大なかまどとなって到来します。しかし2節、神に仕える者には「義の太陽が上り、いやしがある」と言います。さばきは同じように望むのでしょうが、彼には希望が続くのです。そして、牛舎から太陽の光輝く外へ解き放たれた子牛が飛び跳ねるように、それは、喜びの日となると言います。また、「悪者どもを踏みつける」とあるように、決定的な勝利者となる時になります(3節)。

このようなことはいつ起こるの。終末の時のことか、いや、今もそのような機会が与えられると理解したいところです。というのも、キリスト者の勝利は、彼岸のそれのみならず、今の人生においてのそれでもあるからです(ローマ8:35-37)。信仰生活に淡い期待を抱き続けることを止めて、主への信頼を益々深めて歩みたいところです。

2.神の警告

4節からは、最終的なまとめです。マラキがこの書を書いたのは、だいたいBC460-430年頃、ハガイとゼカリヤが神殿を再建するように民を激励してから80年後のことです。約束された繁栄は実現しておらず、バビロンから帰還した時の最初の信仰と熱意は冷め、道徳的にもたるんでいた時代です。人々は預言者たちが大ボラを吹いたのではないか、あるいは、自分たちの神は、期待するほどの力もないと考えるようになったのでしょう。そのような頽廃ムードの中で、マラキは、旧約聖書最後の預言者として、また宗教改革者として現れるわけです。志気を失い、神を信じて何になる、と懐疑的になっている民に、再び、神のことばを告げるために現れました。それはちょうど、アハブの時代にエリヤが登場したように。いや、実のところ、これから霊的衝撃をもたらす、本番のエリヤが来ると言うのです。それはバプテスマのヨハネだと理解されるところですが、確かに彼は6節「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」者でした。この箇所は単純に、文字通り家族の破れが回復される意味ではなく、父なる神と人の関係の回復を語っています。ですから「わたし」は、イエスのこと、イエスの来臨を語っています。彼はまさに、契約に基づいた神の裁きが地に下されないために、破れ口に立つお方として来るのです(レビ記26:32)。大切なのは、神の掟と定めに立ち返り、そこに立ち続けることです。今年も主の教えを心の中心に据えた歩みをさせていただきましょう。

明日から第五サイクルに入ります。ユダヤ教であれば、シムハット・トーラー(トーラの喜び)の祭り(一年1サイクルの律法の書の完読と読み初めを祝う祭り)をするところです。キリスト教会も「聖書信仰」と言うのですから、そのような喜びの時を教会で持つことは期待されてよいのではないでしょうか。聖書こそ私たちの命、力、喜びなのですから、完読と、読み始めは、やはり重要な励ましと祝いの時としたいものです。参考までに、ユダヤ教徒が、この祭りで必ず歌うとされる歌があるので、リンクを張っておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=N-U9Y-7PYKg

歌の中では、「あなたの他に王・救い主・贖い主は居ない。あなたは真実であり、始めであり終わりである。」という歌詞がリピートされています。神を愛し、そのおことばを慕うところに信仰の本質があります。また明日から新しいサイクル、ご一緒に読み進んでまいりましょう(パスターまこと)。