ミカ書7章

7章 主の真実といつくしがあるように

おはようございます。主の裁きを前向きに受け止めるミカの姿に教えられます。徹底した裁きを願うその心には、主への深い信頼と自らの建て直しへの期待があります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ああ、何と悲しいことだ

「ああ、なんと悲しいことだ」ミカは、神の心の内を明らかにしています。それは、思うような収穫を得られなかった農夫の気持ちにぴったり。もちろんそれは比喩で、何が問題かと言えば、ユダ南王国の人々の霊的な状況です。そこには、神の人として心打つ敬虔さや、気持ちが覚めるような真っすぐな正しさを持った人が、もう見当たらないのです。誰も彼もが、悪事を働き、物事をねじ曲げ、自己利益を追求するばかり。皆それぞれの立場を利用し、役得に乗っかっているだけです(3節)。あの人は大丈夫かなと思っても、いざ付き合い始めてみれば、茨のようなとげで傷つきます。神の刑罰が宣告されても致し方のない崩れた社会の現実がある、と(4節)。親しいはずの友や仲間の人間関係も、家庭も崩壊しており、全く無秩序、希望のない社会だ、と言うわけです。ミカは、誰に向けて語っているかに注意すべきでしょう。これは、異教の神々を拝む、イスラエルの周辺諸国のことを言っているのではないのです。神の民、ユダ南王国の現実について語っているのです。そのような意味ではまず教会が、この言葉を真摯に受け止める必要があるでしょう。

2.しかし、私は

そこでこれらのことばを真摯に受け止めるならば、ミカの次の確信を私たちのものとすべきです。「私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる」(7節)。8-10節の神の民と敵は、ユダとバビロンを指していると思われます。ユダはその罪のゆえに、刑に服させられるかのように神の激しい怒りを受けましたが、それで終わりではありませんでした。むしろ、「倒れても起き上がる、闇の中に座しても、主が光となる」(8節)ことが起こったのであり、その信仰を大事にすべきでしょう。神が人を裁くのは、見放したからではなく、どこまでも教育的な心によるものです。神は、人間が神に似せて造られた者として、神の栄光を現すことを求めておられ、神に諦めはありません。人間が人間らしさを取り戻すために、それこそ崩れた石垣を建て直すごとく、人を新しくするように介入されるのです。ですから、神の裁きを恐れてはなりません。

3.ミカの祈り

そこでミカと一緒に神の裁きを前向きに受け止め、彼の祈りを私たちの祈りとしましょう。14節は、孤立ではなく、何の危険も妨害もなく、平穏に神の民が住むことを願う祈りです。主の養いをもって主のものであることがはっきりわかる生き方ができる、教会が回復されることでしょう。教会は暗き世の光です。その祈りに神が応答します(15節)。神の意思は確実で、建て直されるユダに、人々は驚き、神を恐れるようになります(17節)。裁きを恐れてはなりません。神は、いつまでも怒り続けることなく、正しいことをなし、あわれみ深いからです。むしろ神の聖めに与る感謝と賛美をささげたいものです(19節)。