ヨナ書

4章 ヨナを教えられる神

おはようございます。ヨナ書は、神の万人に対する愛を語る書ですが、それは、実に、罪人ニネベの人のみならず、未熟な預言者ヨナを含めた大きな愛を語っています。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の思いに敵対するヨナ

ヨナの宣教の結果、ニネベの人々は神に立ち返り、神は下すと言った業を思い直し、これを下されませんでした。「ああ、よかった」となるはずが、ヨナの心は全く逆でした。ヘブル語原語では、バイラー・ラーアー・ゲドラー、と語根を同じくする単語を繰り返し、非常にという副詞を加えて、「激怒」と言うべきでしょうか。そして、「怒って」と訳されたハーラーは、「燃やす」の意味もあります。「憤懣遣る方無い」というところでしょうか(1節)。なぜそれほどヨナの心は激しかったのか。将来的にニネベを脅威と考える愛国心の故なのか、語ったとおりのことが起こらなかったことに面子が潰れる思いがしたのか、神の甘さに嫌気がさしたのか、理由ははっきりしません。いずれにせよ、彼の思いは、神のそれとは異なるものであったのです。

さて、激しく抗議したヨナは、これから町がどうなるのか、と座り込んでいます。どうやらヨナは、自分が語った通りのことが起こることを、どこかで期待しているようです。それが大惨事の地獄絵図の様相を呈することになろうとも。なんとも、ヨナは、冷酷、非道ではありませんか。しかし、それが人間の現実なのかもしれません。

2.神と語り合うヨナ

そのようなヨナに、一本の唐胡麻を備えて、日陰を造り、涼みを与える神の存在は、実に対照的です。神はヨナの不機嫌を直そうとされました。神の奇跡的な配慮にヨナは喜んでいます。しかし、それも束の間、神はその唐胡麻を枯らし、パレスチナのじりじりと衣服を焦がすような太陽にヨナをさらすのです。東風は、別名シロッコ風、それは、砂漠から吹き付ける熱風で、穀物の穂を焼き(創世41:6、23)、ぶどうの木(エゼ17:9-10)や草花(ヤコ1:10-11)を枯れさせるものです。大魚に飲みこまれ水攻めにあったヨナが今度は、東風の火責めにあっているシンメトリーな構成があります。大切なのは、そこで神がヨナと語り合っているところでしょう。そしてその対話は、弁舌巧みに、人気を博した預言者ヨナが、神の心とは遠くあった現実と、それにもかかわらず、神がヨナ個人に向かい、ヨナに悔い改めを迫ったこの物語の中心を教えているのです。つまりこの物語は、ヨナを含めた万人に対する神の愛と救いを語るものであり、さしずめ、放蕩息子の兄を諭す愛情深い父の物語(ルカ15:25-32)に通じているのです。本来、ヨナは、ソドムを滅ぼそうとした神に、とりなし、これを守ろうとしたアブラハムのようでなければならなかったことでしょう(創世記18:20-33)。神はモーセやエリヤのような、謙遜な人を用いられるお方ですが、そこにも至らぬ、まことにもって未熟な箸にも棒にも掛からぬような働き人をこうしてご自身の器として用いられる、大きな器です。何とも神の救いの物語は全方位的、複合的なものです。あらゆる人々への神の深い愛の配慮があることを覚えたいものです。