哀歌5章

5章 神のめぐみによる回復
おはようございます。人生には、何も変わらないと諦めの境地に陥ることはあるものです。しかし、神に懸ける人生に間違いはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ありのままの祈り
5章は22節から構成されますが、これまでの章と異なって冒頭はアルファベット順に揃えられたいろは歌とはなっていません。それは、この章が祈りとなっているためなのかもしれない。祈りは、真実な心の発露で、技巧的な形に収めることはできないからなのでしょう。詩人の心からの祈りが語られるところです。
先に詩人は、神の「刑罰は果たされた(4:10)」と一つの結論を得ました。「だれにこのような仕打ちをなさったのか(2:20)」何もここまでしなくても、と嘆きながらも、これが終了、もう神の怒りは取り去られたのだ、と納得するわけです。それはイエスの十字架がすべて、私たちの罪が贖われるために何一つ加えるものはない、ということと同じです。
けれども、戦争に負けた現実は現実として迫って来るわけです。神がイスラエルに与えられた土地は他国人のものとなり(2節)、戦争孤児ややもめが生まれ(3節)、水や薪のような生活必需品も支配者から買い求めなくてはなりませんでした(4節)。「奴隷たち」(8節)つまり、ネブカデレザルの家来たちの横暴、そして、「荒野の剣」つまりベドウィンの略奪隊の脅威が回りを取り囲み、女性たちは辱められ(11節)、首長たちは縛り首となり(12節)、若い男性はひき臼をひかされ、幼い者も労働に駆り立てられていきます(13節)。そして灼熱の太陽。以前ラキシュで夏を過ごした時に、衣服を通して日が皮膚に照り付ける暑さを体験したことがありました。ともあれ、神よ、あなたは祝福を約束されるが、それは漠然としていて何も変わらないし、いや、神様あなたは何も変えようとしていないのじゃないか、やはりまだ根に持っておられるのか?「なぜ、私たちを長い間、捨てておられるのですか(21節)」と思うことがあるものでしょう。
2.信仰を働かせる
しかし神を信じるならば、神が「終わった」というものを終わったとし、神が新しくするというものは、新しくなると待ち望むべきなのです。諦める所に救いはありません。ただ打ち破れた感傷に浸るのみです。だから詩人ととも告白しましょう。「主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの王座は代々に続きます(19節)」と。今置かれた状況がいかに惨めであろうと、神は人を裁いて終わらせるお方ではありません。アダム然り、カイン然りでしょう。裁きは悔い改めを目的とするものなのですから、そこに遜り主を呼び求める祈りがあるなら、神は私たちを不名誉なままに捨てておかれることはないのです。そして自業自得でしょ、と終わらせてしまうようなお方でもないのです。もう一度3章をゆっくり読んでみましょう。実に神に期待して間違いはありません。人はそうではなくても、神の優しさは確かなのです。大切なのは現実の厳しさを生きる勇気を頂くことでしょう。神の恵みなければ一歩も先に進めない、とヤコブのように願うことなのです(創世記32:26)。