ヨハネの福音書12章

ラザロはよみがえった。それは、驚くような奇跡であったにもかかわらず、人々はイエスを信じるどころか、イエスに益々激しく敵対し、イエスを殺そうと思うようになった(11:53)。不思議なことである。イエスは、エフライムの地へ弟子たちとともに逃れた。エルサレムの北、ユダヤの荒野の果て、人里離れた町である。そしてこの事件が契機となって、イエスは、ご自分の働きのあり方を変えていく。

つまりイエスは、それまで公に働きを進めてこられたが、これ以後隠れた働きをしていく(36節)。また、奇跡を行うことから、12弟子たちと親密に語り合うようになる(13-17章)。実際イエスご自身の復活は別として、ラザロのよみがえりは最後の奇跡であった。そしてイエスは伝道の旅を終え、エルサレムに戻り (12節)、この世を去るにあたって弟子たちを整えることに専心された。

12章でヨハネは、最後の週の最初の3日間、つまり6日前、5日前、4日前に起こった事件を一つずつ取り上げている。まずイエスは、エフライムからベタニヤへ戻られた。そこでイエスは名誉あるお客として晩餐に招待され、非常に高価で純粋なナルドの香油300グラムを注がれる歓待を受けている。ヨハネの福音書ではラザロの姉妹マリヤとされているが、ルカの罪深い女(7:36-50)、マルコのある女(14:3-11)、との異同が議論されているが、よい結論はない。ただここに描かれているマリヤがそうしたのは、兄弟ラザロがよみがえったことへの感謝を表そうとしたばかりか、イエスの死の間近き事を感じて、自らの最善をこの時にこそささげたいと思ったからなのだろう。マリヤは、イエスが訪問した時には、一時でも長くイエスの側で過ごしイエスの持てるものを吸収することが良いこと(ルカ10:38-42)、そして、イエスに対する忠誠と理解と献身の応答をすべきこと、その場合、最良のものを持って応答すべきこと、を理解していた。イエスは、そのようなマリヤの心を評価した。しかし、ユダはそうではなかった。マリヤとユダの心が対比される。実に、教会における信徒の関心の置き所も同じではない。マリヤ的かユダ的か、そこは大きな別れ道なのである。イエスは言う。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」と(27節)。

12節、イエスが十字架にかかられる一週間前のことである。イエスの人気は非常に高まり、たくさんの群衆がイエスのもとに集まってきた。エルサレムの町に入場するイエスを、人々は歓呼して迎えた。パリサイ人たちにとって、この事件は、とてつもない驚きであった。これまで彼らは、メシヤがイスラエルの軍勢を連れ、天から白馬に乗って降りてこられる、と教えられていたからである。しかし、実際に人々にメシヤとして迎えられたのは、ろばの子に乗って町の門を入場してくる田舎者であった。ただこれは、ゼカリヤが、かつて来るべき平和の王に関して預言したことの成就であった(ゼカリヤ9:10)。

興味深いことに、16節、「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった」と言う。老ヨハネは、回想しながら、メシヤ預言の神学的理解を深めている。つまり、当時の群衆は、イエスがどのようなメシヤであり王であるかも理解せずに、歓喜で迎え入れたのだ。もちろん彼らの頭にあったのは、イエスがイスラエルを国家的に解放する政治的な指導者というメシヤ理解である。しかし既にみて来たように、イエスの意図したメシヤ理解はそうではない。イエスは万民の霊的な救い主なのである。ヨハネはゼカリヤの預言を取り上げながら、この時にイエスが、理解力のない群衆にそのことをわからせよう、と敢えてろばの子に乗る行動をとられた、と理解した。そして他の弟子たちもそのイエスの真意を誰も理解していなかった、と。また、はからずも、弟子入りしようと面会を求めてきたギリシア人たちによって、イエスの意図は証明された、と。イエスは、もはやユダヤ人だけではない、離散したユダヤ人、そして異邦人の王である。全人類の救い主として、エルサレム入場を果たしたのである。神学的探究、信仰理解の深化が、こうして初代の弟子たちに生じているところである。

メシヤの使命は死ぬことであった。十字架上で多くの人々の罪の贖いをすることであった。そのメシヤ観を受け入れるかどうかが問題であった。しかし、群衆はそういう苦難のイエスを受け入れることが出来ないでいたのである(34節)。イエスは、敢えて突っ込んで語られる。今この時に決断すべきである、と(35節)。イエスに不信仰なユダヤ人と議論をする時間はなかった。もはやイエスが霊的な救い主であることは、彼の生涯の最初から十分に説明されてきたからだ。

24節は、よく献身的な熱心さを促すことばとして解釈され、適用されがちなところである。しかし、ヨハネの読者に対する関心は、あの時、イエスが、ご自分を政治的なメシヤではなく、霊的なメシヤとして受け入れるように迫ったことばであると伝えることであった。イエスは、これからご自分が十字架の苦難に会うこと、宗教家たちの敵対的でイエスに対する殺意に満ちた雰囲気の中で、イエスを約束のメシヤとして受入れ、弟子であろうと決断することは、極めて困難であること。まさに、地に落ちて死ぬことを意味することを警告していたのだ、と教えることであった。その上で、私たちも、イエスが霊的な救い主であると告白することにおいて従順であるべきことを、ここから理解すべきなのだろう。

イエスは、神のみこころとしての十字架に従った。神の栄光ある業は十字架を通して完成された。イエスは、キリストを信じる者は、神を信じることに他ならない、とする(44節)。そして、キリストに従うことは、単に地上においてキリスト者になることを意味していない。彼が最後の審判の裁き主であるとするならば、目に見えない神の御国の住人となり、しもべとなることを意味するのである。信仰はこの世を超越した世界の歩みである。