イザヤ書14章

14章 だれもくつがえせない
おはようございます。神のバビロンに対する裁きが語られます(1-23節)。それは、イザヤの時代に起こったアッシリヤに対する裁きに基づくものでした(24-27節)。大国の脅威にさらされても、イザヤは同盟の道ではなく、力強い主に信頼することを勧めるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロンへの嘲りの歌
 神はバビロンを裁かれる。やがてバビロンがアッシリヤを凌ぎ、イスラエルを滅ぼす神の道具として用いられることが預言される。しかし、そのバビロンもまたその高慢の故に厳しく裁かれる、という。「暁の子、明けの明星」(12節)と言われるほどに、栄華を極めたバビロンではあったが、無残にも敗北させられていく。「密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」(14節)というその野心は見事に打ち砕かれるのである(19-23節)。
 実に、こうしたことは国家レベルから、私たちの身近な小さな組織に至るまで歴史に繰り返されて来たことである。人間の権力も神に与えられたものに過ぎない。神は、歴史の支配者であり、みこころのままに、正義を行われる。24-27節は、BC701 アッシリヤのセナケリブが、ユダ侵略に失敗した時の歴史的事実を掲げるものである。イザヤははったりをかましているのではない。神の御手は力強く、妨げられず、失敗することがない。だから神を畏れ、神の前に正しい歩みをしなければならない。その神の前に遜り、神のみこころに服従して生きることが、人間にとって最善である。
なお、この個所は、サタンに対する永遠の裁きを預言していると解釈されてもきた。14節の言葉は、サタンの野心を表すと言う。サタンがエバを誘惑し、神に逆らわせた動機である(創世記3:5)。人は、自分こそが神として崇められる事を求める。誰よりも自分がかわいく、ちやほやされる事を願うものだろう。しかし、それはサタン的な願いである。キリストにあって変えられた者が持つ野心ではない。変えられた者は、地位や権力を求めるのではなく、神の聖さを求める。神の栄光の高さではなく、十字架の遜りの低さを求める。自分を卑しくし、十字架の死に従おうとする。
2.ペリシテへの裁き
 28節からは、ペリシテに対するメッセージである。「アハズ王が死んだ年」(28節)。それは、BC715または720年とも言われるが、定かではない。「お前を打った杖」(29節)は、アッシリヤのティグラテピレセルか、ユダのアハズか、解釈が分かれている。ペリシテは、エクロン、ガザ、ガテ、アシュドデ、アシュケロンなど主要5都市から成る国で、当時は海運国として繁栄していた。だがこの時代、ペリシテはアッシリヤの傘下にあった南ユダを恐れていた。だからアハズ王の死は、ペリシテを安堵させたと理解したい。そのようなアッシリヤに神は喜ぶな、と警告する。「蛇の子孫からまむしが出」これは、アハズ王の後に出てきたヒゼキヤ王を指す。ペリシテからすればアハズもヒゼキヤも同じ敵である。そのペリシテが反アッシリヤのために同盟を求めて「異邦の使者」を送ってきたらどうすべきか。イザヤは、あくまでも主に身を避けるべきことを語る(32節)。寄り頼むべきは主である。

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