ペテロの手紙第一4章

4章 たましいをお委ねする
1.残りの人生を有用に生き抜く(4:1-11)
 ペテロは、キリストを模範とすべきことを、あらゆる角度から語っていますね。
一つは、地上の残された時を、自分の欲望のためではなく、神のみこころに生きることです(1-3節)。好色、泥酔、遊興、宴会、そうした人生はもう十分ではないか、と言います。私も自分が後何年生きられるのか、全く予想がつきませんが、キリストの崇高な生涯に倣う人生を生きるチャンスは、残された時以外にないと思います。そして、私たちが残された命を使い切ったら、私たちを待っているのは、神の裁きの座です。そこで私たちは申し開きをしなければなりません。そうであるなら、今、神が私たちを罪人であるとする神の裁きを素直に受け入れて、イエスの十字架にある罪の赦しに立って、神にお会いする日を思い描きながら歩む方が得策です。
こうしてどのように生きるかは、どのような死を迎えるかにかかっているのです。キリストと共に死の向こうを臨み見ながら、やがて神の前に立つという意識に立つキリスト者に、ペテロは数珠玉のように戒めを語っていきます。万物の終わりが近づいたのだから、心を整え、身を慎みなさい、と。つまり、ぼんやり人生を歩んでいてはだめですよ、と言います。祈るべき時に眠りこけていたペテロは、自らの経験を通して語っているのでしょうね(マルコ14:37-40)。また互いに熱心に愛し合いなさいと言います。情緒的な愛よりも、献身的な愛を示すことです。憎しみは物事を大きくし、対立を深めて行きますが、愛は衝突を小さくし、対立を乗り越えさせるのです。そして、賜物を用いて仕え合いなさい、と言います。賜物というのは、能力、才能、人生経験、育ち、様々な要素を持っているものです。人それぞれに存在意義があるのであって、自分には何もできないと思ってはならない、ということでしょう。互いに助け合って、残りの人生を生き抜くのです。
2.苦難を恐れるな(4:12-19)
ペテロは試練にあるキリスト者にはっきりと語ります。試練に驚かないで、かえって喜びなさい、と。悪いことをして苦しむというのは当然のこと。そうあってはいけない。しかし、キリスト者であることのゆえに、つまり正しいことを行うことのゆえに、苦しむのならそれは名誉なことだ、恥じることではない、嘆くことではない、と。 
確かにどうでしょう。人も様々なことで苦しむものですが、どういうわけか、正しいことを行うために苦しむことがあるものでしょう。不当な苦しみを受けることがあるものです。世の中、良い政治家ばかりだけではなく悪い政治家もいるものでしょう。善良で優しい上司だけではなく意地悪な上司もいるものです。いつも優しく心に寄り添う夫だけではなく、妻を女中か賄い婦のように扱う夫もいるでしょう。望みもしない人間関係に巻き込まれて、足をすくわれることがあるものです。けれども、ペテロは、そのようなことに驚いてはならない。いつでもキリスト者として正しい生き方をしなさい。そして正しい生き方をすることが不本意に思われても、あなた方の残りの人生は、もはや昔と同じであってはならない。というのも不本意な結末を迎えながらも、正しく生き抜いたキリストがあなたと共におられるのではないか。キリストのしもべとして生きるなら、キリストと同じ栄光があなたに留まるのだ。そして、もう、神の裁きの時は始まっている。不敬虔な者や罪人の結末は、わかりきったことだ。神が、きっちり裁きを付けてくださるのだから、あなたの思いも、願いも、皆、神に委ねて、為すべきことをしなさい、と言うわけですね。不本意な時にあると思ったら、抗わず、神にたましいをゆだねることを考えたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「旧約の人物ノアの箱舟は、大洪水の後、どこに漂着したと言われているでしょうか?」答えは、アララテの山地でした(創世記8:4)。伝承では、トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山とされています。では、今日の聖書クイズを一つ。旧約聖書のメシヤ預言は、二つのことを語っています。一つは十字架の苦難に与るメシヤ、もう一つは何でしょうか。答えは、また明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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